「どうして私たちは他人と自分を比べることを止められないのか」酒井順子さんが語る「超納得の理由」

大ヒットエッセイ『負け犬の遠吠え』から21年。酒井さんといえば、クールな観察眼と品のいい苦言、「自らを見つめることのできる静かな鏡」のような筆致が脳裏に浮かぶのではないでしょうか。

そんな酒井さんの新刊タイトルは『消費される階級』。またもやドキリとするタイトルです。いみじくも、これらはオトナサローネにとってとても重要なテーマの一つ。酒井さんに「どうして私たちは階級・格差をついつい気にしてしまうのか」を伺いました。

『消費される階級』酒井順子・著 1,870円(10%税込)/集英社

私たちが自分と他人の「違い」をどうしても気にしてしまう、そのワケは

――私たちオトナサローネでも、「お育ち」というキーワードが大変によく読まれます。

人間は、階級や格差をついつい好んで作ってしまう生き物なのではと考えて今回の書籍を書きました。コンプライアンスが強化され、表向きは平等にという世の中になりましたが、本当に? 表向きのフラットさに隠れているけれど、新たな段差ができていたり、つまづいたのにつまづいたと言い出せない世の中になっただけなのでは?

私は1988年のデビュー作『お年頃 乙女の開花前線』から階級や格差について書いてきました。当時は「マル金・マルビ」など、格差が笑いになる時代。2016年『下に見る人』の頃は、まだその傾向がうっすらと残っていましたが、そこから急激に世の中が変わり、差別的な要素のある言葉や意識を出してはいけない世の中になりました。でも、私は「この変化にみんなついて行けているのかな……?」と考えてしまいます。

格差や階級に対する興味は、みんな多かれ少なかれ持っているように思います。そのうえで、それをどう出さずにいるかが「マナー」というものではないかと。

敗戦までは、日本にも本当に階級が存在したので、意識して当たり前のことでした。戦争が終わって表向きは平等になりながらも、男女差別や容姿差別など様々な差別が存在する時代を経て、現在の「差別は絶対にダメ」という時代に至ります。とはいえ人が二人いればつい、優劣や上下をつけてしまうのが人の常。その感覚をどう処理するのか、という問題が浮上します。

皇室を仰ぎ見るのも、誰かをバカにするのも、根は同じ感覚なのではないかと思います。ただ、上に見るか下に見るかの違いなだけで。その手の話をする時の心の動きには、ジャンクフードを食べる時のような中毒性があるのではないでしょうか。

――こうした格差階級系の言葉は、特にネットでよく見られるように感じます。

普段に生活では水面下に潜る感覚だからこそ、ネットがガス抜きになっているのではないでしょうか?

誰しもネットを見ながら心の中のドロドロを吐き出す瞬間があるでしょう。決して無秩序に毒を垂れ流しているわけではなく、むしろ自制心の高い人が夜寝る前に読むうちに「ああ、同じことを考えてる人がいるんだ」と安心するような。

本当に仲のいい友達同士でなら、そうした会話をしてる人もたくさんいるのだと思います。「お育ち」なんて絶対に口にしてはならないとわかっているからこそ、クローズドな現場で漏らしてみるのが楽しいという感覚は、結構多くの人にあるのではなかろうかと。

平等は正しい考え方だけれど、本当に全てを平等にしようとするととても大変だからこそ、序列が作られるわけですよね。序列によって管理されるシステムは世の中に確かに存在していて、一部認めざるを得ないところはある。そんな中で、「あの人と自分は、同じ人間なのだ」というリスペクトをいかに保つかという部分が、難しいのだと思います。

規則やルールを変えることはできても、人の心の中身や本能はそうそう急には変わりません。だから表と中身は違っていくのだと思います。

前編記事では「階級」が気になる基本的な背景を読み解いていただきました。つづく後編では「それでも階級という言葉に反応してしまう」私たちに、その気持ちとの向き合い方を教えていただきます。

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