【書方箋 この本、効キマス】第71回 『仕事と人間(上・下)』 ヤン・ルカセン 著/濱口 桂一郎

「勤勉革命」の辿った道は

労働史といえば、産業革命以来のせいぜい200年余りを対象とするものがほとんどだが、本書は副題の通り「70万年のグローバル労働史」を上下巻900頁にわたって描き出す大著だ。ハラリやダイヤモンド、ピンカーらのグローバルヒストリーの労働版といったところだが、改めて人類の歴史は多種多様な労働の歴史だったと痛感する。

狩猟採集時代の互酬、初期農耕時代の再分配が中心だった時代を経て、紀元前500年あたりからユーラシア大陸の各地に市場労働中心の時代がやってくる。市場労働を可能にしたのは貨幣、とりわけ少額貨幣の存在だ。これにより、労働の対価を貨幣で受け取り、それで食料品を購入するという自由労働のあり方が可能になった。なるほど、貨幣がなければ賃金労働も存在し得ない。もっとも当時は雇用(賃金)と請負(工賃)は未分化だった。また、これら自由労働と並んで奴隷という非自由労働も重要な位置を占めていた。

中国や中近東では、賃金労働と自営業という自由な市場労働が維持されたが、ヨーロッパとインドでは紀元400年から1000年まで市場が消滅してしまった。硬貨の流通も止まり、自給自足の農奴制に収縮した後、紀元1000年頃からようやく労働市場が復活してくる。とりわけヨーロッパでは、ペスト禍による人口減少によって工賃が高騰し、手工業ギルドが発達してくる。小さなエピソードだが、1378年にフィレンツェの梳毛職人(チオンピ)が起こした反乱は、今日の労働運動に連なる争議第1号の感がある。また本書では奴隷労働がかなりのウエートをもって語られているが、その視野も全世界的に広がっている。近代初期にアフリカからアメリカ大陸に送られた黒人奴隷だけではないのだ。

上下巻を跨ぐ1500~1800年あたりで、東アジアの労働集約型発展経路(勤勉革命)から西欧の資本集約的発展経路(産業革命)への転換が描かれ、ようやくこの当たりから普通の労働史の対象領域に入ってくる。とはいえその視野はあくまでも広い。1800年以降の労働史についても、産業化に伴う自由賃金労働の増加と同時に、非自由労働(奴隷)の衰退、自営労働や家庭内労働の減少がすべて同時に論じられていく。労働時間の短縮、労働組合運動、福祉国家といった近代労働史で定番のテーマが出てくるのは、下巻の終わり近く、第7部の第25~27章だ。

かくも壮大なグローバル労働史において、日本が登場するのはようやく江戸時代で、「勤勉革命」と名付けられた労働集約的発展経路の担い手としてである。本連載で取り上げたヤン・ド・フリース『勤勉革命』(令和3年8月9日号)は、妻や子供などが外で働いて稼ぐようになり(複数稼得世帯化)、その稼いだ金で衣服や音楽を購入し、自宅で食事を作るよりも外食が増えるといった事態を指していたが、本書の勤勉革命はむしろ日本でのこの概念の提唱者である速水融の考え方に近い。そして近代初期の西欧におけるプロト工業化も、近代以前の余暇選好(十分稼いだら働くのをやめ、必要になったらまた働き始める)が逆転したまさに「勤勉革命」であったのであり、それが産業革命によって資本集約的発展経路に転換していくのだ、という歴史観は、実に納得的である。

(ヤン・ルカセン 著、塩原通緒 訳、NHK出版 刊、税込3520円(上下巻ともに))

選者:JIL―PT労働政策研究所長 濱口 桂一郎

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