本来ならば、戦後日本の「模範」ともなり得た「ヒューマニズム」の思想。しかし、現代日本の社会や政治においては、「人道的な行為」が正当に評価されない感覚がある、と解剖学者の養老孟司氏は危惧します。養老氏と名越康文氏の共著『二ホンという病』(日刊現代)より、今の日本に「足りないもの」とは何か、詳しく見ていきましょう。
地方と中央で異なる価値観…足りないのは想像力か
―養老先生、今、地方にはどのぐらいのペースで行かれているんですか。
養老 月に2、3回ですかね。子どもたちを口実にしてね(笑)。
名越 島根にも行かれているそうですが、島根は虫的には興味深い場所なんですか。
養老 そうでもないんですけどね、まあ十何年行っているんで。中国地方って、非常に日本的っていうか、やっていることを見ていると非常に先進的ですね。先進的という意味は、グローバリズムでいう先進的というよりは、本当の意味で先進的なんですよ。
この間も、津和野の町役場に勤めていた人が定年になってね。今何やっているかっていうと、バイオマスの発電をやっているんですよ。小さな会社を立ち上げてね。外国から比較的スケールの小さい機械を買って、今は12台になった。
それを並べて、何するのかというと、まきとか枝とか、そういうのを燃やして、ガス化する。そのガスを使って発電するわけです。要するに将来の地域のエネルギーの自給を試みているんです。そういうことが中国地方はやりやすいんですよね。山がいっぱいあって、集落が小さいんで。
―環境が整っているわけですね。
養老 そうです。広島もそうですけど、山口もそう。広島市は大都会ですけど、山奥に行ったら違いますからね。面白い動きですよ。
名越 それは煙がもこもこ出ないんですか。
養老 出ないね。炭焼きと一緒だ。炭は残る。それは畑にすき込むわけです。
―50人ぐらいの集落であればエネルギーを賄えることになるということですか。
養老 そうです。機械は日本製じゃないんですよ。フィンランドの。フィンランドやスウェーデンは本当に何にもないんで、木しかないから、そういう技術が進んでいるんですよ。
名越 炭もできて、それも活用できる。養老発電でいえば小水力は各地で全面的に使った方がいいですね。日本は水が豊富なんだから。発電のまずいところは効率を考えることです。でかいほどいいんですよ、今の考え方で言うと。だから、つい大きくしてしまう。せっかく地域のためにバイオマス発電をやってもね、まきが足りないとかいうことになって、木を切り出して環境破壊になってしまう。そこが難しい。(津和野の人は)そういうバカなことをしないでね、まさに内発的にやっているわけです。本気でやればいいんです。
名越 自分たちの地域のことを考える、つまり内発的になるんで、すごくいいですよね一体感があって。
東京一極集中が変われば、日本が変わっていく
―地域ごとに内発的なエネルギー革命を進めていったら原発はいらない、ということになります。
養老 だいたい、東京をこんなに大きくしちゃったから、福島で原発を運転しないとどうしようもなくなってしまっている。
―そういう意味でもガラガラポンで東京一極集中が変われば、日本が変わっていく。
養老 おそらく自立するのも、個人がすごく楽になると思いますね。変な心配しないで済みますからね。会社のこととか。ダメなら全員共倒れだから。何とかしなくちゃならない。知恵が出ますよね。
―地方の先進性のお話が続きましたが、中央の政治や社会には多様な価値観が欠けているように思います。
養老 僕はなんだか、日本の現代を象徴しているのが、凶弾に倒れた中村哲さんという人をどう評価するかってことだと思う。まったくないんですよ。沈黙になってしまっている。
中村さんは戦後の日本の模範みたいな人でしょ。それなのに「医者が個人でアフガニスタンで勝手なことをしていた」というのが日本社会、政治の感覚じゃないですか。中村さんが、そんなことをボソッとこぼしていましたね。
―ああいう人物のヒューマニズム、人道的な行いがきちんと評価されない国ってどうなのかなと思いますね。
養老 世界的にも珍しいんじゃないですかね。
名越 なんか、口を開けると、自分が色分けされるって恐怖があるんでしょうね。
養老 戦後の日本はあの人をどう評価するんですか。
名越 変なことをしたおじさんくらいにしか見られていない。奇特な人とか。
想像力の問題がある気がします。日本人だけかどうかは分かりませんが、自分のレベルの領分を超えたことを考える人のことを、社会単位で無視するというか。そこを登ってさらに広い範囲を見渡せる、思考のための梯子がない。
だからごく分かりやすいものの中で、「すごい」も「すごくない」も全て決められてしまっている。それ以上はみ出るともう認識すらされなくなるというか。これって実は思考の牢獄ですね。
今の日本には、中東で銃撃された医師を評価する「物差し」がない
―本来なら日本の政府、政治がやらなければいけないことだった。
養老 抽象的には完全にそうなんですよ。アフガンで工事をやっている最中に米軍機に空爆されて、アフガンのアメリカ大使館に抗議文を送ったんですよ。自分で書いてますよ。(彼の)仕事は終わったわけじゃなくて、ハンセン病の病院をつくったんですね。すぐには閉められないから、それはまだやっているはずですよ。
名越 水路も補修がどんどん必要なんでしょ。
養老 そのために日本の竹かごの伝統を使っているんですよ。鉄の網に石を入れて、現地の人が自分で工事ができるように。江戸時代の九州の水路を見て歩いたんですよね。それが一番役に立っているわけです。現地の人たちが自分たちで修繕できるって。
―地域の人たちの自立を促す意味でも貴重ですよね。
養老 それがね、地域の人たち、いなくなっちゃった。アフガン難民100万人と言いますけど、そのほとんどは干ばつ難民なんですよ。みんな政治難民と思っているけど、そうじゃない。
―日本ではいつになったら評価するのでしょうか。
養老 別にほめなくてもいいけど、どう位置付けるかでしょうね。個人の自立って話だけど、中村さんなんかは典型的にそうですけど、今度はそれをどう評価するかっていう問題があって、なんの物差しも持っていないですよ。ポカンっていう感じですよね。
―人類にとって本当に必要なことを行った人に何の評価もしない日本ってなんだろうっていうことですよね。結局は、歴史が勝者、権力者の視点から書かれている、評価されているからでしょうか。
養老 政治史なんですよ。僕、調べたことがあってね、思想史はどうなっているだろうかって。そうしたら、思想史なんか何もなくて政治史なんだね。典型的なのが山鹿素行ですよ(※江戸時代の儒学者〈仇討ちは、天下の大道にて目のある場で打ち果たすが手柄というべし〉としている。「山鹿語類」)。
山鹿流陣太鼓(討ち入りの際、大石内蔵助が打ち鳴らしたといわれている)ってあるんだけど、しょせん赤穂浪士の討ち入りだということです(※「討ち入りの陣太鼓」は創作で、要は「討ち入り」が政治史になっているということ)。
養老 孟司
医学者、解剖学者
名越 康文
精神科医