ケビン・コスナーの吹き替えでお馴染み、俳優・津嘉山正種が語る沖縄出身で苦労を重ねた青春時代と本気で叶えたかった夢

津嘉山正種 撮影/イシワタフミアキ

沖縄県出身で、1965年に青年座に入団し、現在も舞台、映像の出演の他、声優、ラジオなどでも幅広く活躍する津嘉山正種。彼の「THE CHANGE」とはーー。【第1回/全2回】

うちに裸電球が灯ったのは僕が高校を卒業し、就職してからです。父が早くに亡くなり、5人兄妹でしたから。母親が芋を売り、やっとのことで生活していました。2歳下の妹に高校を卒業させるためにも、僕の大学進学なんて考えられなかった。

就職先は琉球放送。高校時代に演劇部に入っていたんですが、その顧問が琉球放送の放送劇に出ていたんです。僕も一緒に出る機会があり、その縁で入社させてもらいました。配属されたのは編成部。キー局から来るドラマのCM部分を差し替えたり、バラエティ番組のアシスタント・ディレクターをやっていました。

そのうち、将来は自分で沖縄発のドラマを作りたいと思うようになってね。そのためには東京で勉強しないといけない。そう考えた僕は上司に「3年間、東京に行かせてください」とお願いしました。上司は快諾してくれました。

ただ、東京に行くための資金がない。何しろ当時の琉球放送の月給は20ドル。1ドル360円の時代だから7200円。これじゃあ、お金は貯まりません。それで1年間、放送局の仕事とは別にアルバイトをしました。それが米軍兵相手の百科事典の訪問販売。基本給なしの歩合制。マニュアルに書かれた英語を丸暗記して、必死でやったら、これが売れに売れ、瞬く間にトップセールスマンになりました。

おかげで家にも随分お金を入れられたし、電球だけじゃなく、扇風機や冷蔵庫も買えました。それまではどんなに暑くてもうちわ。料理も腐っちゃうから、その日作ったものは、その日のうちに食べないといけなかった。セールスを続けていたら、おそらく家が一軒建ったでしょうね。

劇団員になるまで7年かかった

でも、200ドル貯まったところで、東京に出てきました。それが20歳になって間もない3月の終わり。劇団に入って、演技や制作の基礎を学ぶつもりでした。ところが、すでにどこの劇団も研究生の募集は終わっている。僕はそんな情報さえ知らなかった。結局、つてを頼って唯一試験を受けられたのが青年座。当時、青年座は沖縄がテーマの舞台もやってたから、僕に興味をもってもらえたのかもしれません。

3日間の試験の最後は3分間の自己アピール。僕が話せるのは沖縄のことしかない。

「基地周辺では今もいろんな事故や事件が起き、沖縄の人間はものすごく苦しんでいます」という話をしたら、皆さん聞き入っていましたね。こうして、なんとか青年座に入ることができました。

でも、研究生から準劇団員、そして劇団員になるまで7年かかった。やはり沖縄訛りが抜けないのは大きかったですね。仲間には一緒に飲みに行っても、訛りが出たら必ず指摘してもらったし、日本語アクセント辞典をボロボロになるまで使って、標準語を覚える努力をしました。

もちろん、当時はアルバイトなしでは食えません。しかも芝居をやっている期間は働けない。だから、赤坂でバーテンをやったり、ゴミ回収車の運転手をしたり。生命保険の勧誘もしたけど、加入してくれたのは当時つきあっていた彼女だけでした。

津嘉山正種(つかやま・まさね)
1944年2月6日。沖縄県生まれ。那覇商業高校卒業後、琉球放送勤務をへて、1965年に青年座に入団し、舞台『NINAGAWA マクベス』、映画『男はつらいよ』シリーズ、テレビ『踊る大捜査線』シリーズなど、舞台、映像の出演の他、声優、ラジオなどでも幅広く活躍。第61回芸術選奨文部科学大臣賞、第15回声優アワード功労賞などを受賞。

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