俳優・津嘉山正種「僕の俳優人生は言葉との闘い」ブルース・リーの吹き替えのときはマイクの前で実際に演技しながら「アチョ〜」の声も

津嘉山正種 撮影/イシワタフミアキ

沖縄県出身で、1965年に青年座に入団し、現在も舞台、映像の出演の他、声優、ラジオなどでも幅広く活躍する津嘉山正種。彼の「THE CHANGE」とはーー。【第2回/全2回】

舞台での主役、準主役が増え、声優の仕事が入るようになったのは30代半ば。子供ができた頃です。初めてのレギュラーは『刑事コジャック』(TBS系・1975年)。コジャックを森山周一郎さんが吹き替え、僕は部下のクロッカー刑事でした。

これ以降、声優の仕事が増えていきました。ケヴィン・コスナー、ロバート・デ・ニーロ、リチャード・ギア、リーアム・ニーソン、ハリソン・フォード……。ブルース・リーもやりました。吹き替えのときはマイクの前で実際に演技しながらしゃべります。ブルース・リーなら彼になったつもりで体を動かし、「アチョ〜」の声も出すわけです(笑)。

吹き替えは標準語の勉強になったし、演技にも役立ちました。たとえば『新宿鮫〜無間人形』(NHK)では、主人公の舘ひろしさんと台湾マフィアのボス役の僕がラストで闘うんだけど、僕は映画館の舞台上から仕込み杖を抜きながら、飛び降りる。これは『フランケンシュタイン』(94年)でコートを着たデ・ニーロが氷山から飛び降りるシーンの応用です。僕からディレクターに提案しました。

NHKラジオの『戦世を語る』というドキュメンタリーで、沖縄戦を一人語りしたのが転機になりました。これを聴いたディレクターの依頼で、『クロスオーバーイレブン』(NHK‐FM)のナレーションを担当することになったんです。20年近く続いたこの番組を通して、僕は正しい日本語を話せるようになりました。

いつも台本が真っ黒になるまでアクセントをチェックしました。大阪弁の話が入るときは、青年座の大阪出身者に大阪弁を学び、秋田弁であっても同じ。デ・ニーロも『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74年)に出るにあたり、シチリア島で1年間暮らしてシチリア訛りのイタリア語をマスターしましたしね。

思えば、僕の俳優人生は言葉との闘いでした。今はアナウンサーがアクセントを間違えてもすぐ分かる。

舞台で思い出深いのは、やっぱり蜷川幸雄演出の『マクベス』かな。87年の夏、蜷川さんがロンドンのナショナルシアターでやる『マクベス』で、マクベス役の平幹二朗さんが病気で突然、降板したんです。

死はいつ来るか分からない、やりたいことはやれるときにやろう

すでに芝居のセットは船でロンドンに向かっていて、蜷川さんには「俺と心中してくれ」と懇願されました。結局、引き受けたんだけど、とにかく時間がない。膨大なセリフに加え、殺陣も覚えないといけないから、深夜の公園で、ヘッドライトをつけて殺陣の稽古をしました。何度か警察に通報されましたよ。

ロンドン公演は大成功。ステージが花束で埋まるほどのカーテンコールを受けたときは感動しました。

クモ膜下出血で倒れたのはその翌年のことです。麻雀をしていて、東一局の親でダブル役満を上がった瞬間、頭痛がして崩れ落ち、そのまま救急搬送。半年後には舞台に復帰しましたが、その後も脳梗塞(2005年)、脳卒中(09年)とやった。だから、死はいつ来るか分からない、やりたいことはやれるときにやろう、そう思っています。好きな煙草も酒も麻雀も、やめる気はありません。

今、一番力を入れているのは朗読劇。この5年、「沖縄の魂」シリーズとして、沖縄の人間の思いを伝えてきました。今年の夏は最終章『10カウント ある老ボクサーの夢』の公演を沖縄で行ないます。

僕は20代の頃、ボクシングジムに1年間毎日通いました。ある舞台に備えてのトレーニングでしたが、実現はしなかった。当時の経験も生かした、年老いた元ボクサーと少年の話です。14年前に初公演し、今回の再演にあたっては今の僕にふさわしい脚本に自分で書き直しました。

声優に関しては、クリント・イーストウッドの吹き替えをやりたいですね。彼は90歳を過ぎても『運び屋』(18年)、『クライ・マッチョ』(21年)と、自分の年齢に合った役を演じていますよね。僕もこの年だからこそ、彼の吹き替えが演じられると思います。ぜひやってみたいですね。

津嘉山正種(つかやま・まさね)
1944年2月6日。沖縄県生まれ。那覇商業高校卒業後、琉球放送勤務をへて、1965年に青年座に入団し、舞台『NINAGAWA マクベス』、映画『男はつらいよ』シリーズ、テレビ『踊る大捜査線』シリーズなど、舞台、映像の出演の他、声優、ラジオなどでも幅広く活躍。第61回芸術選奨文部科学大臣賞、第15回声優アワード功労賞などを受賞。

© 株式会社双葉社