『虎に翼』が法律を扱うドラマだからできること 梅子の“家族からの独立”の意味を考える

朝ドラコラボが行われた。朝ドラことNHK連続テレビ小説『虎に翼』の第13週「女房は掃きだめから拾え?」に、前作『ブギウギ』の主要人物・茨田りつ子(菊地凛子)が登場した。多岐川(滝藤賢一)の企画した家庭裁判所を世間に周知させる企画・愛のコンサートの出演者として。

もともと、『ブギウギ』と『虎に翼』は同時代が舞台になっていて、『ブギウギ』のヒロイン・福来スズ子(趣里)と寅子(伊藤沙莉)は同年で、寅子はスズ子が所属していた梅丸少女歌劇団に憧れていた。多岐川がスズ子のヒット曲「東京ブギウギ」を口ずさむシーンもあり、多岐川は福来スズ子を呼びたかったが、蓋を開けてみたら、茨田りつ子であった。久藤(沢村一樹)にコネがあったのだ。

福来スズ子でなく茨田りつ子であった意味は、ある。それは、りつ子が実子よりも仕事(歌)を選んだ人物だからではないだろうか。スズ子は子供を優先し、仕事を辞めてもいいとさえ思っていた。『ブギウギ』では子供を仕事場につれてきて一悶着起こしたこともあった。そんなスズ子と対称的に、りつ子は遠く青森の実家に子供を預け、まったく顧みないわけではないながら、仕事を優先していた。

愛のコンサートの前、楽屋でりつ子は、寅子のかばんのなかに子供からの手紙のようなものが入っているのを見つける。それを機に、寅子は自分の身の上をりつ子に語る。子供を兄嫁(花江)に預けて働いているが、それは無理にやっているわけではなく、法律の仕事が好きだからだと言う寅子に、りつ子は「私もこの仕事が好き」と共感する。おそらく、ここでスズ子が出ると人生論が対立してしまうので、りつ子でよかったのだろう。

スズ子が私は子育てを優先したいと自論を述べて、寅子との対比を描くこともできたとは思う。それだとたぶん話が長くなってしまいそうなので、寅子の生き方と似ているりつ子でよかった。しかも、りつ子の歌はじつにメロウで、生きる悲しみを切々と響く。彼女の歌によって戦後の日本国民がまだつらい思いを抱えて生きているのだと示してもらえたような気もした。『虎に翼』が慎重に避けているように見える、戦後のほの暗さを茨田りつ子によって気付かされたような瞬間であった。

寅子は楽屋でりつ子の衣装のお直しをするが、りつ子に「下手ね」と笑われてしまう。寅子は家事全般得意ではない。でも法律の勉強は好きで、そこに関しては力を発揮するのだ.
苦手なもの、できないものがあってもいい。好きなことをやるのが幸福である。

10年前、高等試験を前に、寅子たちの前から消えた梅子(平岩紙)が再登場し、10年以上抱え続けた、妻や母の役割を担うことは自分には無理だったときっぱり諦める。長年のもやもやに決着をつけ、自分の幸福探しに一歩踏み出す。

梅子は結婚し3人の息子をもったものの、家には居場所がなかった。夫は若い妾を大事にして、息子たちも父にならって梅子を軽視した。幼い三男だけは物事の道理のわかった思いやりのある子に育てたいと、三男だけ連れて試験も放棄して逃げたのだが、結局連れ戻された。その直後、夫が倒れ、10年間、介護を強いられた。その夫が亡くなり遺産相続問題が勃発し、その案件を寅子が担当することになり再会を果たしたのである。このエピソードだけでも独立したドラマになりそうだ。

大庭家の泥沼・遺産相続問題は、梅子が溺愛した三男・光三郎(本田響矢)が夫の愛人すみれ(武田梨奈)と恋愛関係にあったことが判明したことで、急速に収束を迎える。梅子の結婚生活がすべて無為なものだったという残酷な結末を迎えたかと思わせて、梅子はむしろサバサバし、前向きだ。

民法730条「直系血族及び同居の親族は、互に扶け合わなければならない」を使って、梅子が姑・常(鷲尾真知子)の世話を押し付けられることなく、家族制度の呪縛から解放されるのだ。この730条、民法改正のとき、要らないのではないかと言われていたものだが、あってよかった、ものは使いようということである。

あっけらかんと人を食ったような作劇の手つきに、若い世代は、前時代の人間たちが勝手に決めてきた軛に縛られず、自分たちのルールで自由に軽やかに生きようとしているのだと感じる。『虎に翼』は古い価値観を壊して新しい世界に向かう物語だ。光三郎とすみれの予想もしえなかった展開は、戦争と同じ理不尽な、どうにもならない出来事の暗喩にも思える。戦争を体験していない者には戦争が描けない。当事者でないものにはどうにも描けないものがあるという問題があるなかで、作者なりに価値観をがらりと変える不条理を考えた結果なのではないだろうか。

演出の橋本万葉もふくめ、ベテランではないから、やや舌足らずな点はあるものの何か自分たちの世代なりのものづくりを模索する気概は感じられる。花江と道男、光三郎とすみれの処理はもう少し丁寧に描いてほしいと感じたことは否めない。というのは、有名なヴァン・ダインの探偵小説20則で説かれるフェア・プレイが頭にあると、もやもやしてしまうのだ。

『虎に翼』はミステリーではないのだが、探偵20則には「すべての手がかりを、隠さないで、読者に示さないとならない」「犯人が分かった後、読者が読み返してみて、なるほど、ここにはっきりした手がかりが書いてある、私も、作中探偵と同じように注意ぶかければ、犯人を発見できたのだ、と思わせるような書き方でなければならぬ」という項目がある。ミステリーではなくても、物語を書くうえでこれは重要ではないかと思うのだ。

が、『虎に翼』は手がかりを意図的に出さずに話を進めているところを感じる。もっとも、探偵20則が発表されたのは1928年である。もうすぐ100年経ってしまうのだ。この長い年月、掟破りの作品も生まれている。だから『虎に翼』がドラマづくりの原則を意図的に破っているとしてもまったく問題はない。そしてそれこそが法律を、法律が変わっていくことを扱うドラマらしさなのではないかとも思うのだ。

参考資料
江戸川乱歩、松本清張著『推理小説作法 あなたもきっと書きたくなる』(光文社)

(文=木俣冬)

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