延岡大空襲から79年

 79年前の1945(昭和20)年6月29日午前1時過ぎ、延岡市の東の空が照明弾で明るくなった。壕へ避難していた17歳の学生だった故・渡木真之さんの目に焼き付いたのは、目前に架かる安賀多橋だった。
 直後に落下音とともに焼夷弾が次々と爆発、大瀬川両岸の街並みは炎に包まれ、渡木さんら市民は橋の下に逃げ込む。すると川原に火柱の竜巻が起き、橋げたすれすれに焼夷弾が落とされる。「火の地獄」の中で川原にはみ出ていたなら「直撃を食らっていた」。
 延岡大空襲を語り継いだ渡木さんが、戦後50年を機に刊行した画集「我が故郷に戦火燃ゆ」を久しぶりに読んだ。美術の短大教授だった渡木さんの、迫力ある絵からは生々しい恐怖感が伝わってくる。安賀多橋が「命の橋」と呼ばれる意味を、あらためて教えてもらった。
 延岡大空襲は、B29爆撃機105機によって1万2447発もの焼夷弾が集中投下された(本紙「戦後70年宮崎空襲の真実」)。約2時間の攻撃で市街地の大半が被災し、即死者は130人に上った。延岡中ではきのう、この空襲で殉職した栗田彰子教諭ら犠牲者を追悼する慰霊祭を今年も行った。
 「慰霊の言葉」で寺田侑央(ゆあ)さん(14)は「戦争という愚かなことが二度と起きないよう努力し続ける」と、誓いを述べた。「犠牲を踏み越えて建て直した平和国家に、再度惜別と死生観を味わわせてはならない」。渡木さんの言葉とともに歴史を胸に刻みたい。

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