『街並み照らすヤツら』大団円の定番を覆す大胆な仕掛け EDでユーモアな事実が判明

判決の言い渡しを翌日に控え、正義(森本慎太郎)は彩(森川葵)と一緒にケーキづくりに専念。「恋の実」に次々とやってくる商店街の人々に、それぞれをイメージしたケーキを振る舞っていく。気付けば「恋の実」の前の狭い路地には大勢の登場人物たちが集まり、思い思いにケーキを食べながら雑談が繰り広げられていく。6月29日に最終話を迎えた『街並み照らすヤツら』(日本テレビ系)は、最後の最後まで一般的かつ典型的なテレビドラマの構成の枠にとらわれず、独自の道を歩み続けることに成功したといえよう。

そもそもこのドラマ自体が、“虹色ロード商店街”というごく限られた空間のなかで物語の大部分が進行し、そこに日下部(宇野祥平)や澤本(吉川愛)の刑事コンビの警察署でのやり取りや、商店会長の大村(船越英一郎)とその息子でデベロッパーの光一(伊藤健太郎)の地下駐車場での暗躍などがインサートするかたちで運ばれてきた。それをこの最終話では、もっともっと狭いエリアにぎゅっと凝縮させる。それはさながら舞台劇のようであり、画変わりの少ない狭小空間をとことん活かしながら(セットをセットであるように見せながら)描写していくのだ。

無論、物語の最後の最後に登場人物が一堂に会するというのは、様々なドラマや映画ではよくある定番の“大団円”といったやつである。それこそ本作を主に手掛けた前田弘二と高田亮のタッグ作品で言えば、『婚前特急』の唐突な駅のホームでのラストシーンであったり、近作の『こいびとのみつけかた』の理髪店のシーンであったり。ほとんど“エピローグ”として機能しがちなこうした大団円を、最終回の――しかも要肝心な正義の判決結果を見せる前にほぼ丸々1エピソードを費やして描く。なんて大胆なことをしでかすのだ。

この大団円で注目すべき点はいくつかある。ひとつは、視点と切り取り方の自由さである。正義と彩を囲うようにたくさんの登場人物が集まるわけだが、2人が店内に引っ込んでもカメラは店の前の路地に留まったまま、そこにいる別の誰かに向き続ける。また大村親子の親子喧嘩のシーンでは、それを眺める正義がそこに自分と亡き父親の幻影を重ねると、幻影の正義親子の会話から子ども時代の回想へとジャンプする(そこではしっかりと、正義が「恋の実」の店内に入ってくれる)。しかも、あくまでも基準はこの店の前でのにぎわいにあるため、判決言い渡しのシーンもそのなかに差し込まれるかたちで描かれる。

そしてもうひとつは、やはり人物の巧妙な出入りであろう。正義に呼ばれてやってきた澤本は、ケーキをもらってフェードアウト。日下部もその場に立ち入ることができずに荒木(浜野謙太)の店を訪ねたり、商店街でたそがれていたり。大村親子は路地の左右からそれぞれ仰々しく現れ、交わることなく一悶着を繰り広げる。このように、先述した商店街の“外側”で動いてきた人間は“商店街のみんな”とは明らかに異なる動きを見せる。それは荒木の店の常連として偽装強盗に加担したマサキ(萩原護)とシュン(曽田陵介)も然り。マサキは警察に付き添われてやってきて、ケーキをもらって立ち去るのだ。

一方でシュンの方はとても曖昧な立ち位置であり、登場こそマサキと一緒ではあるが、彼はまだ“商店街のみんな”になろうとしているようにも見える。向井(竹財輝之助)に時計を返して和解をし、かつ彼の少々悪辣な誘いを断ることで彩との約束を守ろうとする。すると正義と光一の会話の途中で突然メンチカツを求めてフェードアウトする。ところが、その後のシーンで彼はメンチカツを片手にその場所に戻って完全に場になじむ。これはつまり、この商店街で生まれ育った子どもたちと同じメンチカツを食べることで、彼が理想として話していた正義と彩の子ども――すなわち“虹色ロード商店街の子ども”になることを叶えたということだろうか。

こうした見方ができるのも、このドラマが一貫してストーリーに捧げられたもの(つまりはどんでん返しやら伏線回収やらに固執した陳腐なもの)ではなく、徹底して人物とその人物たちが動く空間に捧げられたものであったからに他ならない。すぱっと潔く切り上げられるエンディングで明かされるナレーション=地蔵、すなわち商店街の住人たちをずっと見守り続けてきた存在が見守っていたというユーモア。街と、人と、そこに刻まれた時間への愛で満ちている。

(文=久保田和馬)

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