現代に特産品が残るトウカイの「宿場町」【東海道五十三次の内の「府中宿」(静岡市)】~駿府(府中宿)の名物から全国区になった「安倍川もち」~

古くからヒトやモノが往来した街道沿いで、旅人のために、宿や人馬の輸送機関(問屋場)を置いた集落「宿場町」。東西を結ぶ交通の要所でもある東海エリアには多くの街道が通り、宿場町が点在していました。旅人相手に、グルメや生活用品をはじめとする特産品を売り出す宿場も少なくなく、各宿場の「名物」として、旅の楽しみにもなっていました。ここでは、かつての「名物」が今も残るトウカイの宿場町を紹介します。

東海道五十三次の内の「府中宿」(静岡市)~駿府(府中宿)の名物から全国区になった「安倍川もち」~

現代の安倍川と安倍川橋(写真提供:静岡市)

安倍川餅でその名を知られる安倍川は、静岡県と山梨県の県境に位置する標高約2000メートルの大谷嶺(おおたにれい)を源流とし、山間部を流れて自然を合わせながら駿河湾へ注ぐ一級河川です。
幹線流路延長は約51キロと比較的短く、日本有数の急流土砂河川といわれています。
東海道の府中宿の北方から西方、南方にかけて抱くように流れており、江戸時代は軍事的配慮から橋を架けることが禁止されていたため、徒歩で渡るか、人足が担ぐ輿(こし)に乗るか、肩車してもらうなどして渡らなければなりませんでした。

東海道で最大規模の宿場町「府中宿」

歌川広重が描いた『東海道五十三次』府中宿 (廣重 画『東海道五十三次』1,[古吾妻錦繪保存會],[18–]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1911032)

川越人足が担ぐ輿に乗ったり、肩車や背負われたりして安倍川を渡る旅人の様子が生き生きと描かれています。

「駿府名勝一覽之圖」 (『駿府名勝一覽之圖』,大和屋喜兵衛,[江戸後期]. 国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/pid/2543046)

駿府城下と久能山真景(右の別枠)を描いた俯瞰図(右上が北)。
中央右寄りに描かれた黄色い四角形が駿府城です。
北から西、南に向かって流れているのが安倍川で、府中宿から西方にある丸子宿に向かうには、安倍川を渡る必要があリました。

府中宿は、徳川家康が隠居城として築いた駿府城を取り巻く町並みとして、東海道でも最大規模を誇っていました。
宿場内には南北に28町あり、東見附から西見附までの街道は、曲がりくねっているとはいえ、約10キロにも及びました(見附とは、番兵を置いた軍事施設のことを指します)。
1843(天保14)年の記録によると、宿場内に本陣は2軒、旅籠屋は43軒、人口は1万4071人だったとされています。

駿府城公園(写真提供:静岡市)

家康による大御所政治の舞台として権勢を誇った駿府城ですが、その死後は、城下の出火により天守などが焼失(天守は再建せず)、1854(安政元)年の大地震では建物や石垣がほぼ全壊しました。
その後修復されましたが、明治に入ると各城門は取り壊されました。
1951(昭和26)年に駿府公園となり、平成に入って、巽櫓(たつみやぐら)、二ノ丸東御門、坤(ひつじさる)櫓が復元されています(2012年「駿府城公園」に改称)。

東海道の名物として全国に広まった安倍川餅

江戸時代後期に出版された「東海道五十三駅道中記細見双六」 (一立斎広重『東海道五十三駅道中記細見双六』,山本平吉. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1310715)

庶民層への旅の広まりを背景として、江戸後期に盛んに出版されるようになったものに「道中双六」があり、東海道を描いたものは特に人気を集めたといいます。
道中の宿場の風景を描いたマス目に、次の宿場への距離や名所、名物といった具体的な情報が記され、遊びながら旅の雰囲気を味わうことができます。
全体の一番右上のマスが府中宿です。

「東海道五十三駅道中記細見双六」の府中宿部分を切り取って180度回転させた画像

府中宿のマスには、宿場の風景と安倍川餅の挿絵が描かれており、「府中 まりこへ一リ半」という見出しのほかに、「名ぶつあべ川もち たんとあがれ」というコメントなどがあります。

1893(明治26)年出版の『靜岡繁昌記』の府中宿の項には「双六画面にさへ、最も他より華は美に描かれ、安倍川餅の名物としては、旅せぬ子供にさへも渡り…」という記述があり、道中双六が各地の名物を広めるのに大きな役割を果たしたであろうことがうかがえます。

「東海道五十三次の内 府中 喜多八」(役者見立東海道五十三駅) (豊国『東海道五十三次の内 府中 喜多八』,住政. 国立国会図書館デジタルコレクション   https://dl.ndl.go.jp/pid/1305323)

東海道五十三次に関連のある歌舞伎演目の登場人物をメーンにした浮世絵シリーズでは、府中宿の項で「東海道中膝栗毛」の主人公の一人・喜多八が描かれています。
作者の十返舎一九の出身地が府中宿という因縁から、喜多八が題材に選ばれたのでしょうか。
背景は安倍川、右上のタイトル部分には名物あべ川餅も描かれています。

ちなみに江戸時代後期に出版された『東海道中膝栗毛』の府中宿の記述(抜粋)では、
「ほどなく弥勒(みろく)といへるにいたる
ここは名におふあべ川もちの名物にて、両側の茶屋、いづれも奇麗に花やかなり
ちゃや女「めいぶつ餅をあがりやァし、五文どりを上がりやァし」」
とあり、安倍川のほとりの弥勒という場所に安倍川餅を出す茶屋があり、にぎわっていたことがわかります。

農林水産省のホームページ内「うちの郷土料理 次世代に伝えたい大切な味」の項目で紹介されている 「静岡県 安倍川もち」(出展:農林水産省)https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/36_18_shizuoka.html

ところで、安倍川もちとはどんな餅だったのでしょう。
明治時代に編まれた国語辞典『ことばの泉』では「「もと、駿河国安倍川辺の名物也しよりいふ」餅をやきて湯に浸し、砂糖を入れたるきなこにまぶしたもの。きなこもち。」とあります。
ほかにもいろいろな古い書物を見るといずれも、つきたてあるいは焼いて湯に浸したものをきなこにまぶしたものらしく、「安倍川餅」といえば「きな粉餅」を指していたようです。
「安倍川餅」の名前の由来は、徳川家康が命名したとか、安倍川のほとりで売られていたことから、など諸説あるようですが、旅人や書物を通じてその名と味は広く知れ渡り、きな粉餅の代名詞としても親しまれていったのです。

現代でも味わうことができる「安倍川餅」(写真提供:静岡県観光協会)

現代の私たちが買い求めることができる一般的な安倍川餅は、きな粉餅とあんこ餅がセットになったものです。
いつごろからあんこ餅とのセットになったのかは定かではありませんが、1906(明治39)年出版の『予の半面』(伊藤銀月著)に東海道徒歩旅行の紀行文があり、興味深い記述があったので、関連部分を以下に意訳して記してみます。
(作者の伊藤銀月(1871~1944)は、明治~昭和前期の小説家、評論家です)
「静岡へ入ると名物安倍川餅の看板が目に入るようになった。東京でも正月によく食べさせられる安倍川餅=きな粉餅を自分はそう好きではないが、本場のものはどんなものかと味わってみた。まあまあの大きさのヘギ盆(片木盆=白木の四角いお盆)にお餅を5個ずつ二列に並べ、一列はあんころで、もう一列はきなこがまぶしてある。味は流石に結構、名物にも旨い物あり」(以上、関連部分の意訳)
明治後期には、東京でも安倍川餅(きな粉餅)を食べていたこと、本場の静岡ではあんこ餅とセットで出す店があったことなどがわかります。

現在、静岡市内には安倍川餅を提供する店が点在し、安倍川橋の近くには創業から200年以上の歴史を持つ老舗もあります。
色々なお店の安倍川餅を食べ歩いて、お気に入りを見つけるのも楽しそうですね。

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