【名馬列伝】アグネスデジタルより30年以上も前に存在した「二刀流」。マーチス、アサカオーら宿命ライバルとつばぜり合いを演じた常識破りの“怪物オールラウンダー”

馬場の違いを乗り越えて、芝でもダートでも走る。芝の天皇賞(秋)、香港カップ、安田記念、マイルチャンピオンシップを制する一方で、フェブラリーステークス、南部杯と、ダートのGⅠ(JpnⅠ)でも勝利を挙げたアグネスデジタルは「オールラウンダー(複数の特質を併せ持つプレイヤー)」との呼び名で持て囃された。

しかし、アグネスデジタルが活躍する30年以上も前に芝・ダートの「二刀流」であるのはもちろんのこと、距離もスプリント戦から長距離戦まで不問で、今では想像さえできない65キロという酷量さえ跳ね返した怪物的オールラウンダーがいたことをご存知だろうか。JRAの顕彰馬となっているタケシバオーが、その馬である。
タケシバオーは1965年4月23日、元祖アイドルホースのハイセイコーなどを出したことで知られる名種牡馬チャイナロックを父に、豪州から導入された牝系に連なるタカツナミ(父ヤシママンナ)を母にして、北海道・新冠町にある榊憲治の牧場で生まれた。幼駒の時期にはまったく見栄えのしない小柄な馬であったことから、のちに預託を受ける調教師の三井末太郎が初めて見た際には「これが馬ですか」と、何とも失礼な感想を漏らしたという逸話がある。

2歳になって東京競馬場にある三井の厩舎へ入ったタケシバオーだが、まだその頃の馬体は幼く細いまま。そこで三井は、オーナーの小畑正雄(競馬新聞『競友』社長)と相談のうえ一計を案じ、栄養価が高い輸入飼料を食わせ込んで体づくりに取り組んだ。その甲斐あって、タケシバオーは460㎏ぐらいまで体重も増え、競走馬らしい体つきになった。 デビューは2歳6月の新潟。ここで芝1000m戦を2回連続で2着し、転戦した函館の芝1000m戦でようやく勝利を挙げた。そして次は札幌のダート1200m戦を3着とし、福島のオープン(芝1000m)に優勝。ここからタケシバオーの快進撃が始まる。

福島のオープン特別(芝1100m)、中山のオープン(芝1200m)を連勝。3番人気で迎えた朝日杯3歳ステークス(芝1600m)では直線入口で先頭に立つと、あとは後続を引き離す一方で、ゴールでは2着に7馬身差を付けていた。この勝利でタケシバオーは一躍、翌春のクラシック候補と騒がれるようになった。

この頃のローテーションは今とは比較にならないほどハードで、基本的に「使えるところは全部使う」というのが普通の考え方だった。クラシック候補と呼ばれるようになったタケシバオーも例外ではなく、3歳になってから皐月賞までの間に何と5レースに出走する。そして、その段階でマーチス、アサカオーと並んで「三強」の一角として評価されるようになっていく。
年明けからの歩みを振り返ると、まず中山のオープン(芝1600m)に勝ち、続く東京4歳ステークス(ダート1700m)にも優勝。弥生賞(芝1600m)は暴走気味の先行策が裏目に出てアサカオーの2着に敗れたが(マーチスは3着)、続く中山のオープン(芝1800m)には優勝。さらにトライアルのスプリングステークス(芝1800m)はマーチスの2着となり(アサカオーは3着)、いよいよ一冠目の皐月賞(中山、芝2000m)に臨むことになる。

皐月賞は予想通りに三強の争いとなったが、早めに先頭に躍り出たタケシバオーは並びかけたアサカオーを振り切ってゴールを目指すが、後方から強襲したマーチスに差されて3/4馬身差の2着に泣いた。

また、トライアルのNHK杯(東京・芝2000m)を制して臨んだ日本ダービー(東京・芝2400m)では、三強が互いに意識しすぎて仕掛けが遅れたため、9番人気の伏兵タニノハローモアに逃げ切りを許し、タケシバオーはまたも2着に敗れた(3着アサカオー、4着マーチス)。ちなみに波乱を起こしたタニノハローモアの調教師は、のちにミホノブルボンを送り出すハードトレーニングで有名な戸山為夫である。

普通ならば、いったん休養して菊花賞(GⅠ、京都・芝3000m)を目指すのが常道だが、ここからタケシバオーは独自の道を歩み始める。11月に行なわれるアメリカのビッグレース、ワシントンDCインターナショナル(ローレル・芝12ハロン)への招待に応じて渡米。8着に終わったが、貴重な経験を積んだ。 3歳4月以来、勝ち鞍から遠ざかっているタケシバオーだが、4歳になった1969年、縦横無尽なレース選択をしながらで快走を続ける。

2月の東京新聞杯(東京・ダート2100m)をレコード勝ちすると勢いに乗り、東京のオープン(ダート1700m)もレコードで圧勝。続く春の京都記念(京都・芝2400m)も62㎏のハンデを苦にせず快勝すると、阪神のオープン(芝1600m)を当時の日本レコード(1分35秒2)で勝って、いよいよ春の大目標としていた天皇賞(京都・芝3200m)へと向かう。

前年春の三強が顔を合わせたこの一戦。1番人気に推されたタケシバオーは超スローペースの3番手を進むと、2周目の第3コーナー過ぎから仕掛けて最終コーナーを回ると、直線半ばで逃げるダイイチオーを交わして先頭へ。アサカオーが後方から追い込んだが、それを2馬身抑えて優勝(マーチスは5着)。ついに旧八大競走(※1)のタイトルを手に入れた。
(※1)グレード制が導入される1984年以前、クラシック5競走に春秋の天皇賞と有馬記念を加えた8競走が、特に格の高いレースとしてこう呼ばれた。

その後、体調不良で宝塚記念を回避して休養に入ったタケシバオーは、復帰戦としてオープンのジュライステークス(中山・芝1800m)に出走。次位の斤量より7キロも重い65キロいう酷量を背負いながら、不良馬場をも克服して優勝。手綱をとった古山良司は「タケシバオーが『強い』と思ったのは、このレースだった」と述懐している。

続く毎日王冠(東京・ダート2100m)を3馬身半差で快勝したタケシバオーは、この時点で獲得賞金が日本の競馬史上初の1億円超えを果たし、競馬の枠を越える話題の主となった。
そして、再び渡米を決めたのち、壮行レースとして出走したのは、何とスプリント戦の英国フェア開催記念(オープン、中山・芝1200m)だった(※2)。春には3200mの天皇賞を制した馬が、一転して62キロを背負いながらコースレコードで優勝するという予想や常識をはるかに超える結果をもたらし、ファンを大いに喜ばせた。
(※2)「スプリンターズステークス」が本年のみ、レース名を変えて施行されたもの。

米国へ渡ったタケシバオーは体調を崩し、ワシントンDCインターナショナルは大差の7着に終わった。その後、帰国してからは有馬記念を目指して調教を再開したが、ついに体調が戻ることはなく、オーナーの小畑から引退が発表された。数々の快走を見せながら8連勝を記録したタケシバオーは、1969年の年度代表馬に選出された。

距離や馬場別の路線が整備され、トップホースは半期で3戦という使い方が常識となった現在から見れば、タケシバオーの恐るべきオールラウンダーぶりは過去の遺物と感じられるのは無理もないことだろう。

だが、例えばオグリキャップがクラシックに参戦できなかったことや、強行軍がファンの感動を呼んだように制約に縛られることによって生み出される常識破りの行ないが見る者の心を動かしてきたのもまた確かだ。筆者はできることなら、タケシバオーの走りをリアルタイムで体験したかったと強く思っている。

文●三好達彦

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