岩隈久志 ポスティング移籍に失敗も…2012年、海を渡りマリナーズへ【平成球界裏面史】

アスレチックスと契約合意に至らず、楽天残留会見をした岩隈久志(2010年12月)

【平成球界裏面史 近鉄編59】平成21年(2009年)、岩隈久志は第2回WBCに出場し松坂大輔、ダルビッシュ有と先発3本柱として活躍。世界の舞台でMVP級の評価を受け、MLBのスカウトからもメジャー志向の強い投手としての認識を得た。

そして平成22年(10年)にはNPBで通算100勝を達成。3年連続2桁勝利という実績を引っ提げ、ポスティングシステムを行使してメジャー挑戦を表明した。楽天球団もチーム草創期から発展に寄与してきた右腕を評価。岩隈の挑戦を自然と容認する流れとなった。

独占交渉権は約1900万ドルでアスレチックスが勝ち取った。ただ、その後の入団交渉は難航した。交渉期限の12月7日午前0時(米東部時間)になっても契約合意に至らず。翌8日には仙台で会見を開き、イーグルスに残留することを表明した。

平成23年(11年)は岩隈にとって海外FA権を獲得するシーズンだった。ここで好成績を収め、メジャーへの花道を自ら作りたい――。そう意気込んで臨んだわけだが、5月半ばから右肩痛のため2か月ほど戦列を離れることを余儀なくされた。メジャー移籍前のNPB最終シーズンの成績は6勝7敗と見栄えの良いものではなかった。

それでも長年積み重ねて得た「権利」を胸を張って行使した。最初の5年間はドラフトでプロへの道を作ってくれた近鉄バファローズ、次の7シーズンは新球団の楽天イーグルスで右腕を振い続けた。数々の経験をここに集約せんと海を渡ることを決意した。

「楽天に残るか、FA権を行使するのか悩みました。東日本大震災のあった今年、東北の皆さんと一緒に前へと進む気持ちでシーズンを戦い抜いた。前年はポスティングでのメジャー移籍に至らなかったですが、もう一度チャレンジしたいという思いです。仙台のファンの皆さんを裏切るのではなく、楽天出身の自分が活躍し東北の皆さんに希望を届けられればと考えました」

代理人によるメジャー各球団との交渉の結果、シアトル・マリナーズが獲得に乗り出した。西海岸北部で東洋人も多く治安も悪くはない。大先輩であり、WBCのチームメートのイチローも所属している。条件面では楽天在籍時の半分にも満たない年俸だったが、それは問題ではなかった。

平成24年(12年)、米アリゾナ州ピオリアではマリナーズの春季キャンプが行われていた。投手の集合日も決まり、岩隈は晴れてメジャー契約の選手としてキャンプに参加した。始まってから1週間あまりが過ぎた2月20日、岩隈はライブピッチング(シート打撃)に登板する予定だった。前年に痛めた右肩は十分にケアを施し、地道な強化トレーニングも続けてきた。さて、実戦登板ではどんな投球ができるのか。本人とて不安だったに違いない。

投球を終え、ホッとしていると物陰から思わぬ訪問者を目にした。「えっ、本当に来てくれたんですか」。岩隈は思わず涙をこぼした。近鉄入団の1年目、二軍投手コーチとしてプロの基礎を伝授してくれた師匠がそこにいたからだった。久保康生氏(現巨人巡回コーチ)だ。

阪神のコーチを退任したタイミングもうまく重なって渡米が実現。岩隈と対面することになった。「『おい、クマ!』って声掛けたら、びっくりするやら喜んでくれてね。何も泣くことないのにな。でも、そんな喜んでもらえるとうれしかったね」。師匠の訪米は岩隈にとって心強かったに違いない。

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