『光る君へ』、左大臣を「辞める、辞める」と繰り返した厄介なおじさん・道長と鴨川の氾濫

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『光る君へ』第25回「決意」では、まひろ(吉高由里子さん)が越前から京都に戻ることになり、かねてよりプロポーズされていた藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)に「私は不実な女でございますが、それでよろしゅうございますか」と言うと、「わしも不実だ。あいこである」と返答され、そのまま結婚することになりました。

「私も不実」とは火の玉ストレートすぎますよね。たしかにこの時代の結婚は(特に女性にとって)、愛を実らせた末に待ち構えているロマンティックなものというより、自分の身を落ち着けることができる就職先を見つける感覚に近かったのです。しかし、苦労をするのであれば、惚れてもいない不実な相手ではなく、心底惹かれている相手から苦しめられるほうがマシなのではないか、などと考えてしまいました(次回予告の映像でもさっそく、2人は大喧嘩していましたね)。

当時の婚期を大幅に過ぎているまひろにとっては、妾ではなく、相応に適した人物の妻になれる「ラストチャンス」という打算があったのかなぁとも思ってしまいましたが……。

ドラマの後半部では、一条天皇(塩野瑛久さん)が中宮定子(高畑充希さん)との情事におぼれ、政をないがしろにしているうちに鴨川の堤防が決壊して多くの民の命が奪われ、道長(柄本佑さん)が「主上(おかみ)を説得できない自分は左大臣にふさわしくない」という辞表を提出……というやりとりがありました。全体的に「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」、政治と個人の感情が交錯するように描かれていたと思われます。

今回はこのあたりを中心にお話していきますが、平安時代後期に絶大なる権力を誇った白河院が、「この私でさえ思い通りにならないもの」として「賀茂川の水と双六の賽と比叡山の僧兵」(『平家物語』)と言ったことからも、京都市中を流れる「加茂川(=鴨川)」が梅雨時、もしくは秋雨時に氾濫して大被害をもたらすことは京都に住む人たちの間で身分に関係なく、大きな悩み事になっていたことがわかります。

現代では正式表記が「鴨川」ですが、口語的には出町柳より上流を「加茂川(賀茂川)」、それより下流を「鴨川」などと区別することがあるようです(「上賀茂神社」と「下鴨神社」の表記の違いはそういうわけなのですね)。

しかし、平安時代中期の公卿の日記などを集めた日文研の「摂関記古記録データベース」で検索してみたところ、当時は「鴨川」ではなく「鴨河」の表記が一般的だったことがわかりました。当時の鴨川がいかに広大な流れとして、京都の人々に認識されていたかを示すものですね。「河」という漢字は、「川」よりも約50倍も大きな流れに対して使うものだそうですよ(日本河川協会のホームページより)。

そして「摂関記古記録データベース」によると、一条天皇の治世――特に長徳年間になったあたりから、梅雨もしくは秋雨の雨で、鴨川の氾濫が多発したようです。ドラマに登場したのは、長徳4年(998年)9月初頭の鴨川大氾濫で、藤原行成(ドラマでは渡辺大知さん)の日記『権記』には「霖雨に依りて一条の堤、壊ち、鴨河、横流す。府に入ること海のごとし」とあります。

要約すると「秋雨で鴨川の堤防が決壊し、京都市中が海のように泥水で満たされてしまった」ということなのですが、このような惨事がしばしば起きていたようです。『権記』には、その前年・長徳3年(997年)5月にも鴨川が氾濫し、「一条より近衛御門の末に至るまで」が水びたしになったという記録があります。鴨川には、天長元年(824年)に「防鴨河使(ぼうがし)」が設置されており、朝廷が鴨川の治水工事に取り組んでいたことがわかるのですが、あまり効果はなく、一条天皇の時代にも相次ぐ被害が出ていたのでした。

ちなみに、洪水被害を防げなかった道長が辞表を提出するというドラマの描写は、例によって道長をヒーローとして描くための史実を背景にした演出でしょう。これまでも道長の姉の詮子(吉田羊さん)が自身の病気治癒を目的として、地方に左遷されていた伊周・隆家兄弟(三浦翔平さん・竜星涼さん)に恩赦を与え、定子の後見人のようにも振る舞っていたと本連載でお話しましたが、実は身体が弱かった道長は病気になるたび、出家したいとか、自分の高い地位や特権を抛(なげう)つ覚悟で天皇に「辞表」を提出し、それによって神仏に病気治癒を祈願したようです。

道長のような剛腕を振るう人物でも病気のときは気が弱ってしまうようで、「出家はやめなさい」などと天皇が引き止めてくれると、気を良くするという困った傾向もありました。「死ぬ死ぬ詐欺」ならぬ「辞め辞め詐欺」の悪癖が道長にあったということでしょうね。

たとえば前回のドラマで描かれた長徳4年にも道長は辞表を提出していますが、それは洪水が起きた9月ではなく、道長の日記『御堂関白記』によると7月のことでした。『権記』によると、同年3月3日にも「左大臣(道長)、重く腰病を煩ふ事」という記述があります。おそらく道長はギックリ腰だったのでしょうが、それでも宮中への参内ができないことなどを理由に左大臣の辞表を天皇に提出していたようです。

この当時、辞表は3回提出し、3回目に天皇からの回答が来るのが通例であり、それが一種の「お約束」だったのですが、気弱になった道長の場合は「辞めないで」と天皇から言ってもらえるまでは辞表を出し続ける、それは厄介なおじさんと化していたことが推察できて実に興味深いものがあります。

ちなみに一条天皇は、道長のコントロールには長けていましたが、次代の帝・三条天皇(ドラマでは木村達成さん)はあまり得意ではなかったとされます。そして、道長と三条天皇の折り合いは非常に悪かったことで有名です。「あなたに必要だといわれたい!」と迫ってくる(やることはエグいわりに)病弱メンヘラおじさん・道長を掌中の珠(たま)としてうまく転がすことができるか――それが平安時代中期の帝王としての求められる資質のひとつだったのかもしれません。

お話を長徳4年(998年)に戻すと、この年の5月には「疱瘡・疫癘、遍満の事」(『小記目録』)という記述も見られます。長徳4年は、日本で最初の麻疹(はしか)の大流行が始まった年としても有名ですね。

ドラマにも水害にあった藤原為時(岸谷五朗さん)の屋敷(つまり、まひろたちが暮らす屋敷)の様子が描かれていましたが、こうした洪水後には伝染病が蔓延するのが常でした。『枕草子』に描かれた宮廷文化華やかなりし時代というイメージとは異なり、実際はかなりの難事続きであったことがうかがえるのです。

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