日本人母子襲撃事件 “1日遅れの発表”の背景に「社会不安の高まり露呈させることへの危惧」 “最も安全な国”中国の報道体制

6月24日、中国東部の江蘇省蘇州市で刃物を持った無職の中国人の男が日本人学校のスクールバスを襲撃する事件が発生した。男はバス停にいた日本人の親子を刃物で刺し、その後、身を挺して男の犯行を止めようとしたスクールバスの案内係の中国人女性を複数回刺した。

目撃者によると男は多くの児童が乗っていたバスに乗り込もうとしていて、中国人女性の勇敢な行動がなければさらに多くの被害者が出ていた可能性もあった。最初に襲われた日本人親子の命は助かったが、男を止めた中国人女性は事件から2日後に死亡した。

地元政府は死亡した胡さんの勇気を称える称号を授与

事件発生から3日経った6月27日、蘇州市の地元警察はこれまで重体とされていたスクールバス案内係の胡友平さんが死亡したことを発表した。そして胡さんの勇敢な行動に対して「自らの危険を顧みず、勇気を持って犯罪に立ち向かい多くの人が被害を受けることを防いだ」と称賛した。

胡さんが死亡したことを受けて北京の日本大使館と上海総領事館では半旗が掲げられ、金杉憲治中国大使は「日本政府、そして日本国民を代表し、その勇気ある行動に改めて深い敬意を表するとともに、心からのお悔やみを申し上げます」と哀悼の意を表した。

胡さんの死亡が発表された後、中国のSNSには胡さんの死を悼み、感謝する言葉が次々と書き込まれ、6月28日には「ウェイボ」の検索ランキングで第1位となった。また、在中国日本大使館の公式ウェイボに半旗を掲げた写真とともに追悼の意が表明されると「彼女は子供を守っただけでなく中国人の尊厳も守ってくれた」、「胡さんが安らかに眠れるように中国と日本の平和と友好を願っている」など1万4800件を超える中国人からのメッセージが書き込まれた。

中国外交部が言及するまで一切報道されず

これだけ中国の世論が注目するに至った今回の事件だが、当初は中国の主要なメディアで報じられることはなく、さらに中国政府や地元警察からも正式な発表はなかった。

事件発生から丸一日が経った6月25日、中国外交部の報道官が記者の質問に答える形で初めて事件について言及し、次のように述べた。「事件については遺憾です。警察の初動捜査では偶発的事件だとしています。中国は外国人の安全を確保するため引き続き然るべき措置をとります。中国は世界が認める最も安全な国の1つです」。そして会見終了後、タイミングを合わせたかのように地元警察は事件を起こした男を現行犯逮捕していたことを発表し、同時に中国の主要メディアも事件の概要を一斉に報じた。

事件発生から丸一日が経つまで公表しない理由はどこにあるのか。中国メディア研究などが専門の北海道大学の城山英巳教授は「社会の不安全感」の高まりを露呈させることへの危惧があったと指摘する。

「『なぜ地方政府・地方公安が報道しなかった』という点ですが、日本人(外国人)が負傷した事件が明らかになれば、社会の不安、より中国的に言えば『社会の不安全感』の高まりが露呈することになるので、蘇州市の幹部は、上部機関の江蘇省あるいは北京の党中央から批判され、自分たちへの評価が下がることを恐れたのではないかと考えられます。『国家の安全』を最重視する習近平国家主席の体制では、社会の安全が損なわれる事件や事故が発生すれば、幹部の業績がマイナス評価になる規定があるとみられ、これで隠蔽を図った可能性が高いです。

一方で外交部は、一応外国人の安全保護と国際社会への公開を重視しているので、外国メディアから聞かれて『知らない』では国際社会から批判を浴びるので『聞かれたら答える』という方針で臨んだと思います。今回、中央政府が公表したことで、それに合わせて地方政府も発表したのですが、地方政府と外交部では『重き』を置くポイントが違うため、こういう齟齬が生じるのはよくあることです。

ただ、突発事件の公表基準は内部で定められており、以前から一定の死者数が出たケースは一定の時間内に公表しなければならないというルールがあります。今回の蘇州市の日本人親子が刺された事件は被害者が外国人ではあるものの、当初の負傷者数人の場合には絶対公表しなければならないかと言ったら微妙です。このため公表しなかった地方や公安の幹部が中央の宣伝部門から強く批判あるいは叱責を受けているかと言えば、必ずしもそうとは言えないと思います」

日本企業の投資への悪影響を懸念か

また城山教授は、公表が遅れた背景には、日本企業の投資に悪影響を及ぼすことを懸念した可能性もあったとみている。

「事件を起こした男は52歳の無職だったということですが、現在、経済不況や社会の不平等感が拡大する中、絶望感が高まり、社会に報復したいと考える不満分子は以前に比べて確実に増えています。今回、事件についての公表が遅れた背景には蘇州市は日本企業の誘致を積極的に進めており、事件を公表することで日本企業の投資に悪影響を及ぼすことを懸念して公表を控えようとした可能性もあったと思います。

習近平体制が西側敵視の宣伝を強化する中、排外的な感情が高まり、外国人への攻撃を正当化する社会的弱者が増えているという現実もあり、今回の胡友平さんの悲劇は、歪んだ体制によってもたらされたものとも言えます」

今回の事件は中国に住んでいる日本人に大きな衝撃を与えた。北京市で小学生の子供をスクールバスに乗せている母親は「日本人を狙ったのか、そうでないのか、事件の背景が分からないことが一番怖い。今の送迎体制では同じような事件が起きた場合、身代わりになって刺されるしか子供を守る方法がない」とその不安を口にした。

「迅速で正確な報道」は誰のために必要なのか。それは国家や権力者のためではなく、日常を生きる市井の人々が安心して暮らせるためのものであるはずだ。私は今回の事件を通して「公開と取材の自由」が何より重要だと強く感じている。
(取材、執筆:FNN北京支局 河村忠徳)

© FNNプライムオンライン