Mr.Children「Replay」大ブレイク直前のミスチル!天性のメロディメーカー桜井和寿!  ミスチルがブレイクした3枚目のシングル「Replay 」

連載【新・黄金の6年間 1993-1998】vol.31 Replay / Mr.Children ▶ 作詞:桜井和寿 ▶ 作曲:桜井和寿 ▶ 編曲: 小林武史 & Mr.Children ▶ 発売:1993年7月1日

ミスチルにとって初のCMタイアップ曲「Replay」

1993年夏、テレビからとびきりキャッチーなメロディが聴こえてきた。

 はぐれた時間(とき)の隙間なら  きっとすぐ埋まるよ  ためらいのない想いが甦る

画面を見ると―― グリコ「ポッキー」のCMが流れている。当時、ポッキーは清水美沙・牧瀬里穂・中江有里・今村雅美による “四姉妹物語” のシリーズCMを展開中。その“夏祭り編” だった。

僕の胸を一瞬で掴んだ美しいメロディは、前年にデビューしたばかりのMr.Childrenの3枚目のシングル「Replay」(作詞・作曲:桜井和寿)だった。当時、彼らはまだ無名だったが、ミスチルにとって初のCMタイアップが功を奏して、同曲はオリコン最高19位とスマッシュヒットする。

今日―― 7月1日は、今から31年前に、そんな「Replay」がリリースされた記念すべき日。ややハスキーがかった桜井サンの切ない声に、頭サビからキャッチーで美しいメロディが最高だった。冒頭で “現在” を語り、Aメロから“回想”に入る歌詞の構成も斬新だった。

 こんなわがまま言うのも久しぶりね、と  君はつぶやく  海岸に沿った通りへ 君を連れ出し  あの頃のように

そう、耳に残るメロディ―― ミスチルの音楽を語る上で、この要素は外せない。今日、僕らが音楽を話題にする時、メロディが語られることはあまりない。大抵、歌詞の世界観とかサウンドの先進性とか、あるいはアーティストのキャラクター性が語られる。世界的にブレイクしてなお “顔出し” をしない設定を貫くAdoはその典型だろう。

だが、かつて日本の音楽界には、何度か “メロディの時代” があった。ヒットソングがメロディから生まれたという意味合いだ。ここからはその歴史の話になる。少々長くなるが、しばしお付き合い願いたい。

“第1次アイドル黄金期” にメロディを紡いだ作曲家たち

最初の波は、いわゆる “第1次アイドル黄金期” の起点、1971年から70年代半ばがそう。南沙織・小柳ルミ子・天地真理の “三人娘” を始め、郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎の “新御三家”、森昌子・桜田淳子・山口百恵の “中三トリオ” など、ティーンをターゲットにアイドルたちが続々とデビューした時代である。彼らは耳馴染みのいいポップなアイドル歌謡を歌い、瞬く間にお茶の間の人気者になった。

その背景として―― 71年にカラーテレビの普及率が50%を越え、テレビ映えするアイドルをお茶の間が潜在的に欲していたと言われる。日本テレビの『スター誕生!』が始まるのも71年である。そして彼らアイドルたちに楽曲を提供したのが、筒美京平や平尾昌晃、森田公一、中村泰士、都倉俊一ら、職業作曲家の先生たちだった。

もちろん、先生たちがメロディを紡いだ相手はアイドルに止まらない。筒美京平は尾崎紀世彦に「また逢う日まで」を、平尾昌晃は五木ひろしに「よこはま・たそがれ」を、森田公一は和田アキ子に「あの鐘を鳴らすのはあなた」を、中村泰士はちあきなおみに「喝采」を提供するなど、その活躍は多岐に渡った。

面白いのは、そんな “歌謡界” に触発されるように、この時代、フォークやニューミュージック界からも優れたメロディが数多く誕生したこと。加藤和彦と北山修の「あの素晴らしい愛をもう一度」を始め、赤い鳥の「翼をください」、よしだたくろう(現:吉田拓郎)の「結婚しようよ」、南こうせつとかぐや姫の「神田川」、チューリップの「心の旅」―― etc

国民的アイドルソングとして街にあふれた “第2次アイドル黄金期”

次の波は、1978年にスタートした『ザ・ベストテン』(TBS系)が起点となり、80年代前半にかけて盛り上がる。70年代末、まずチャートを賑わせたのはニューミュージック勢だった。ゴダイゴの「銀河鉄道999(The Galaxy Express 999)」や甲斐バンドの「HERO(ヒーローになる時、それは今)」、渡辺真知子の「迷い道」、世良公則&ツイストの「あんたのバラード」、サザンオールスターズの「いとしのエリー」、クリスタルキングの「大都会」、久保田早紀の「異邦人」、松山千春の「季節の中で」―― etc

そして80年代に入ると、ご存知、松田聖子や中森明菜ら “第2次アイドル黄金期” に突入する。「夏の扉」や「セカンド・ラブ」など、単なるティーン向けのヒットに止まらず、国民的アイドルソングとして街にあふれたのが、この時代の特徴。背景に、アイドルとニューミュージックの融合があった。聖子サンには財津和夫を始め、大滝詠一、ユーミン、細野晴臣、尾崎亜美らが楽曲を提供し、明菜サンには来生たかお、大澤誉志幸、玉置浩二、高中正義、井上陽水らがメロディを紡いだ。

共通するキーワードは、“タイアップ” と “J-POP”

第3の波は、90年代初頭に不意に訪れる。それは、フジテレビからだった。アニメ『ちびまる子ちゃん』からB.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」、バラエティ『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』からKANの「愛は勝つ」、そしてドラマ『東京ラブストーリー』から小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」がブレイク。いずれもメロディが評価されてミリオンセラーに。共通するキーワードは、“タイアップ” と “J-POP” だった。

その流れは93年にはテレビ界全体へと広がり、更にCMからも数多くのヒット曲が生まれる。ニューカマーたちも続々とスポットライトを浴び、このシリーズコラムが言うところの『新・黄金の6年間』(93年〜98年)を迎える。そして―― 話は冒頭のミスチルの初のスマッシュヒットに “リプレイ” する。おっと、このひと言を言うために、こんな遠回りをしてしまった。

 夜は 君を不思議な程  綺麗に写すよ  誘われるように抱きしめたなら  不安は消えるから

テレビを起点に盛り上がったメロディの時代

“メロディの時代” の利点は2つある。

1つは、“スターを作る力” だ。キャッチーなメロディは、時に一介の新人を一夜にしてスターに押し上げる。昭和の時代の2度のアイドルブームがそれを証明する。また、初期の『ザ・ベストテン』で次々とニューミュージックの新顔たちがブレイクしたり、90年代前半にJ-POPの新鋭たちが続々と表舞台に躍り出たのもそう。美しいメロディさえあれば、音楽業界に特別なコネがなくても、一夜にして天下を取れた。

もう1つは、メロディの持つ “共感力” だ。美しいメロディはそれだけで、様々な障壁を飛び越えて、人々の間に浸透する。歌詞の世界観や歌い手のキャラクター性を飛び越えて、多くの人々の胸を打つ。結果―― 大ヒットが生まれる。過去3度の “メロディの時代” が、いずれもテレビを起点に盛り上がったのがその証左。優れたメロディとテレビの相乗効果で、国民的ヒットが生まれたのである。

そこで、ミスチルである。

彼らは、これまでに数々の音楽業界の偉業を打ち立てたが、中でも注目したい記録は、4枚目のシングル「CROSS ROAD」から11枚目のシングル「花 -Mémento-Mori-」に至る8作連続ミリオンセラーだ。同記録は、AKB48、B'z、乃木坂46に次ぐ歴代4位だが、失礼ながら “国民的ヒット” という視点に立つと、個人的にはミスチルに軍配を挙げたくなる。なぜなら、彼らの楽曲を聴けば、誰もが「あぁ、あの曲」と聞き覚えがあるから。それ即ち、メロディの力である。

 誰より愛しい君よ  いつの日もその胸に  離れていても変わらぬ想いを

天性のメロディメーカー桜井和寿

ミスチルは、高校時代の軽音楽部の部員で結成したバンド “ザ・ウォールズ" が起点になっている。この時点でボーカルの桜井和寿、ギターの田原健一、ベースの中川敬輔は揃っており、高校卒業後にドラムの鈴木英哉が加わり、晴れて現在の編成になる。メンバー全員、1969年度生まれで、スピッツの2学年後輩になる(もちろん学校は違う)。特筆すべきは、彼らは高校時代から、コピーよりもオリジナルを優先していたこと。当時を回想して、桜井サンは曲作りで苦労した記憶はないという。天性のメロディメーカーたる所以である。

1989年1月1日、ザ・ウォールズはMr.Childrenに改名する。“ミスター” と “チルドレン” という相反するワードの組み合わせは、カテゴライズされたくないという彼らなりの反骨精神と、一方で大人から子供まで幅広く愛されたいという思いが込められていた。図らずも、それは “美しいメロディ” によって叶えられる。

89年と言えば、あの『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS系)こと “イカ天” が始まり、翌90年末にかけて、世にバンドブームが吹き荒れた年である。当時、4人は渋谷の道玄坂にあるライブハウスLa.mama(ラママ)をベースに活動しており、同番組から出演の誘いもあったという。だが―― “ブームに踊らされたくない” という思いから辞退する。結果として、その判断は正しかった。

また、この時期、ライブを重ねるごとにファンも増え、空前のバンドブームの追い風もあり、レコード会社からのデビューの誘いもいくつかあったそう。ただ、これも当時の自分たちが正当に評価されているのか掴めず、誘いを断る。実際、当時のミスチルはバンドブームの影響を受け、その演奏スタイルは、今とは異なり、いわゆる “縦ノリ” だった。

91年1月、ミスチルは自分たちのレーゾンデートルを見つめ直すために、バンド活動を一旦休止する。そして3ヶ月後、渋谷La.mamaで復活した彼らは、よりポップに進化して帰ってきた。そんな “進化した” ミスチルに “この路線ならイケる” と声をかけたのが、TOY'S FACTORY代表の稲葉貢一サンだった。JUN SKY WALKER(S)や筋肉少女帯を発掘し、後にSPEEDやゆずもデビューさせる業界切っての傑物である。

「初めて自分たちの “ポップ” を評価してくれた」―― それが、4人の稲葉サンに対するリアクションだった。そしてミスチルは晴れて、トイズと契約する。稲葉サンは、桜井サンのメロディメーカーとしての非凡さを伸ばすには、音楽的センスとヒット曲を作るノウハウを併せ持つ、小林武史プロデューサーが適任と考え、4人に引き合わせた。時に、1991年11月――ここに、今日の僕らが知る “新星・ミスチル" がスタートする。

4人にとって初のミリオンセラー「CROSS ROAD」がリリースされるのは、その2年後である。

カタリベ: 指南役

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