ドイツで開催中のEURO(サッカー欧州選手権)2024。
26日には優勝候補のフランスがポーランドが対戦して1-1で引分けた。
フランスのゴールは、大会初戦で鼻骨を骨折したエムバペのPKによるもの。エムバペにとってEURO初ゴールだった。
一方、ポーランドの同点弾もPKからのゴールで、レバンドフスキがゴール左に流し込んだ。
盛り上がりを見せているEUROの決勝は7月14日(日本時間15日午前4時キックオフ)に行われ、その10日後の24日にはパリ五輪も開幕する。
地元開催の五輪で優勝を目論むフランスのマクロン大統領は、25歳のエムバペに五輪出場を要請したと伝えられているが、もしEUROで決勝まで勝ち進んだ場合、オフはほとんどないに等しくなるし、強行出場した場合、来シーズンからプレーするスペインのレアル・マドリード(6月3日に移籍が発表された)が許すとも思えない。
それでもマクロン大統領は、2度目の五輪金メダルを夢見ていることだろう。
フランスが、初めて五輪のサッカーで金メダルを獲得したのは、1984年の米国・ロス五輪だった。アンリ・ミッシェル監督に率いられたチームは、決勝でブラジルを下して金メダルに輝いた。
ところが、対戦相手のブラジル代表というのが、名ばかりのチームだった。
実際に出場したのは、ブラジル国内のクラブチーム「インテルナシオナル」だったのである。
W杯となると目の色が変わるブラジルだが、彼らにとって当時の五輪の扱いは、代表チームを送り込むほどではない、という程度のものだった。
それでもチームにはGKジルマール、FWミルトン・クルス、MFドゥンガ、DFマウロ・ガルボンといった後のブラジル代表選手らがプレーしていた。
ただ、大会そのものはレベルダウンが否めなかった。
なぜなら前回1980年モスクワ五輪で優勝したチェコスロバキア、銀メダルの東ドイツ、銅メダルのソ連(いずれも当時)といった旧共産圏のステートアマ(アマチュアとは名ばかりのプロ選手)が、4年後のロス五輪をボイコットして出場していなかったからだ。
西側諸国が、ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)に抗議してモスクワ五輪をボイコットしたことに対する報復措置だった。
そんな彼らに変わってロス五輪にエントリーしたのが西ドイツ(当時)、イタリア、ノルウェーだった。
それまで五輪の出場資格はアマチュアに限られていたが、ロス五輪からプロ選手の出場が解禁された。
ただしW杯の本大会と予選に出場した選手はNGだった。出場資格に「23歳以下」という年齢制限ができたのは、1992年のバルセロナ五輪からだった。
ちなみに西ドイツにはDFギド・ブッフバルト、DFアンドレアス・ブレーメ(今年2月に死去)、MFウーベ・ラーンがいたし(チームはグループリーグで敗退)イタリアにはDFフランコ・バレージ、FWダニエル・マッサーロ、FWアルド・セレナ、GKワルター・ゼンガがいて監督はベアルゾットだった(イタリアは4位。3位はユーゴスラビア=当時)。
いずれにしても、フランスがロス五輪で金メダルに輝いたからといって、国内の注目度は高くはなかった。
なぜなら同じ1984年に自国でEUROを開催し、将軍プラティニに率いられたレ・ブルー(フランス代表)が、見事に初優勝を遂げていたからだ。
やはり当時の五輪サッカーは欧州・南米の国々にとって重要な大会ではなく、W杯の次に勝ちがあるのはEUROであり、南米王者を決めるコパ・アメリカ(現在、米国で開催中=決勝7月15日)ということになる。
しかし、五輪サッカー自体も大会を重ねるにつれてグレードアップしていき、プロの出場とオーバーエージ(OA)枠(年齢制限のない選手3人が出場可)の導入によって、魅力的な選手も出場するようになった。
そこでマクロン大統領も「OA枠でエムバペを五輪代表に」ということになるのだろう。
フランスのサッカー協会は6月3日、パリ五輪に向けてOA選手2人を含む代表候補選手25人を発表したが、そこにはエムバペの名前はなかった。
しかし、五輪代表のアンリ監督は「(五輪代表発表の)7月3日に何が起こるか、それは分からない。リストが代わる可能性もある。誰にでも扉は開けてある」と含みのあるコメントを残した。
果たして結果はどうなるのだろうか?
開催中のEUROの優勝争いと同様、大いに注目されるところである。