『おいハンサム!!』の劇場版は“これがいい”が詰まっていた 伊藤家が築きあげてきた“日常”

これでいい、というよりもむしろ“これがいい”。テレビドラマの劇場版となると、どうしたっていわゆる“劇場版スケール”が求められ、突然海外に行ったり大きな事件が起きたり、なにからなにまで大々的に見せようとするのが常套手段。もちろんずっとテレビで観ていた作品を観るためにわざわざ劇場まで足を運んでもらうとなれば、きっかけや理由付けになるだけの「特別感」が必要になるわけで、そういった意味ではこうした劇場版スケール自体を否定する余地はない。

しかしながら映画『おいハンサム!!』は、あえてなのかどうか、そのようなあからさまな「特別感」を付与するような選択肢を取らない。むしろ徹底してテレビドラマと同じことをやろうとする作り手の気概すら感じるほどで、もちろん119分の上映時間=ドラマ3話分というような構成でもなく、しっかりと一本の軸が通ったストーリーとして器用巧みにまとめあげているのだ。

基本的に“伊藤家”の家のなかと、娘たちそれぞれが一人暮らしをしている家、それぞれの職場、あとは近くの飲食店や路上といった、紛うことなき生活圏でドラマを構成してきた『おいハンサム!!』。それを前提にすると、次女の里香(佐久間由衣)が東京を離れて京都に行くこと、それに付随して父・源太郎(吉田鋼太郎)と母・千鶴(MEGUMI)も里香に会うために京都に向かうことは彼らの生活圏を突破した、ある種の“劇場版スケール”に見えなくもない。しかしながら、よくよく考えてみれば、元々里香は結婚して大阪で暮らし、シーズン1の序盤で夫(元夫)・大輔(桐山漣)の浮気が発覚することによって東京に戻ってきているのである。

いくら京都が定番の観光地であっても、移動距離の観点からいってシーズン1より短いとなれば、そこに「特別感」は求められるはずもない。ましてや、いつもの伊藤家の居間で「ちょっと京都に行ってきてほしい」とフランクな感じに頼まれた里香は、次の登場シーンでもうキャリーケースを引いて京都の住宅街を悠々と歩き、映画版のゲストキャラクターである“ぶう”(宮世琉弥)と出会い頭にぶつかる。源太郎と千鶴が訪ねていく際にも観光らしい観光はしないし、そこに至るまでの移動過程がバッサリと切り落とされる。逆に終盤に“ぶう”がやってくる際には東京駅の正面のカットがひとつ入るものの、彼は早々に伊藤家にたどり着く。あたかもそこに400km近い距離が存在していないかのように京都が扱われるのである。

しかしそれでもこの映画版においては、彼ら伊藤家にとって“非日常”と呼ぶべき「特別感」をもたらす瞬間がたしかに訪れるのである。源太郎がテレビ番組に出演して“ハンサムな言葉”がお茶の間に流されるということもそのひとつではあるが、もっと身近で日常的な非日常が序盤のシーンから見受けられる。それは家族そろっての外食シーンである。

これまでのドラマ版全16話(シーズン1、シーズン2)を通して、毎回なんらかのかたちで日常と密接に関わる“食事”が描かれてきて、シーズン2の第3話では「うな重問題」をきっかけに“食べること”の必要性が改めて説かれてきた。無論、劇中では伊藤家の朝食から夕食までの食卓の席や、大勢でカニを食べたりお土産のケーキを食べたり、出前を食べたりといった“内食・中食”はもちろんのこと、各々が外で食事をしたり酒を飲んだりというシーンが、おそらく他のドラマよりもかなり多い頻度で描かれてきた。

ところが家族5人が全員そろっての外食シーンはどうだっただろうか? シーズン1で三女・美香(武田玲奈)が大倉学(高杉真宙)と結婚する方向で話が進み、両家の顔合わせが行われる席で、伊藤家の5人は全員そろって外で食事をする。その一度きりであったはずだ。いうまでもなくそれは、娘が嫁ぐ(かもしれない、結局破談になるわけだが)という伊藤家5人の日常を大きく揺るがすだけの一大イベントである。また、源太郎と千鶴、里香で閉店する中華屋の最終日に足を運ぶシーズン1の第7話は例外としても、シーズン2の第7話で源太郎と美香がいそいそと外でモーニングを食べるシーンもまた、千鶴が風邪で寝込むという非日常に起因するものであった。

そうした非日常的シチュエーションがあって初めて訪れるはずの一家揃っての外食が、映画版では居間で5人がよく遊んでいる七並べの罰ゲームの意味合いであっさりと実現する。些細な日常の延長線で、決して劇的ではないながらも家族生活においてなくてはならない非日常が作りだされ、そこに「特別感」が見出されるのだ。しかもそれが円卓を囲むちょっぴり高級な中華料理という点も、彼ら伊藤家が築きあげてきた“日常”は、映画版という非日常的コンテンツを前にしても決しておろそかにされることはないと証明する。

“非日常”をあえて序盤に意図的に作りだして設定するからこそ、その後次々と起こる波乱に満ちたストーリーを経ても、伊藤家の面々に外的な変化があらわれることはない。よって、この映画のラストの後も、彼らの日常はいつも通りのんびりと、時折ほどよいスパイスを加えながら続くことになる。この映画のキーワードのひとつでもある表現を借用すれば、言えることはただひとつ。「シーズン3を製作してくれてありがとうございます」。

(文=久保田和馬)

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