「自分の可能性は自分にしか開けない」後悔を糧にして掴んだ夢のメダル。元体操日本代表・村上茉愛の挑戦と日々を支えた食習慣

明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回は2021年夏の東京五輪で女子体操・種目別床で銅メダルを獲得し、現在は後進の指導に当たっている元体操選手の村上茉愛さんが登場。体操を始めたきっかけや思春期の成長と挫折、リオデジャネイロ五輪での悔しさ、東京五輪での経験、引退後の活動、今後の目標、アスリートの食生活まで幅広く語ってくれた。

――体操を始めたのは3歳の時ですか?

4つ上の兄と2つ上の姉がいて、私が生まれた時に4歳の兄が体操を始めていたんです。なので、自分も赤ちゃんの時から体操場に行っていて、よちよち歩きしながらマットで遊んだりしていたみたいんです。だから0歳から始めたという感じかな(笑)。「本格的に習いたい」と自分から言い出したのは、3~4歳の頃だったみたいです。

――その当時、体操を始めたころの練習内容は?

段違い平行棒はちょっと別ですけど、それ以外は床の上での練習からスタートし、発展していく形です。床で練習する時間が自然と多くなりますし、それの影響もあって私は床が好きになりましたね。

あと練習環境にトランポリンがあるかどうかというのも大きなポイントだと思います。私が所属していたクラブは約20メートル四方の体操用の大きなトランポリンがあって、そこで沢山練習できたので、ジャンプとか飛ぶ感覚を遊びの中から養えました。それはすごく大きかったかなと思います。

――村上さんは小学校入学時からソウル・バルセロナの五輪メダリスト・池谷幸雄さんが主宰する池谷体操教室に入ったんですよね。

池谷さんは清風高校・日本体育大学出身で、父の高校・大学の先輩に当たります。その池谷さんの体操クラブが東京にできると聞いて、家族全員で引っ越して、私は1期生として加入することになりました。

指導の素晴らしさだけではなく、これから表舞台に出てたときに緊張しないようメンタルを鍛えたり、大人に対する受け答えや挨拶をしっかりできるようなるために生徒をテレビ出演させるという方針がありました。独特な考え方ですけど、「大人になった時に自分の感情をきちんと表現することはすごく大事だよ」と言われ続けていたので、そのことは今も自分の中に刻まれています。

実は私もテレビにも出たことがあって2005年放送の「ウメ子」というTBSのドラマでした。「5歳の小学生の役で、側転やバック転のできる子はいませんか」と打診があって、お話を頂きました。テレビに出れるかなと興味が湧いて、オーディションを受けたら、見事に合格しました(笑)。

――芸能の道への興味はなかったのですか?

ドラマ撮影が3カ月間あったんですけど、ちょうど運動会と被って、リレーに出られなかったんですよね。週6回の体操クラブの練習も行けなくなり、運動する場を奪われるのも嫌だった。やっぱり自分は根っからのアスリートなんだと思います。
――体操に打ち込む中で小学校6年生のときにH難度のシリバスを成功させたことが大きな話題となりました。

背が小さくて補助を受けながらでしたが、かなり上手く出来ていたと思います。でも、中学2年生の夏に左肘の軟骨が剥がれ、膝の軟骨を取って移植する手術をすることになって、それで1年くらい体操ができなくなってしまった。

ちょうど成長期とも重なって、高校1年生までに身長が15センチ伸びて、体重も10キロ増えた。そのとき初めて体の動きと自分の感覚が以前とは違うように思えて、不安やもどかしさで周囲の人に感情的に当たってしまうこともありました。

――他の競技でも成長期を経てジャンプが思うように飛べなくなると聞いたことがあります。

女子は男子に比べて筋力が少ないですし、極端に体が変わると競技の感覚も変わってしまうことがあると思います。私の場合はケガで全く体操をしていない状態で体の成長があったんで、逆にゼロからの感覚で適応できた。もちろん悩みましたけど、ケガに救われたところもあったのかもしれません。

――明星高校に入学し、2年の時には世界選手権にも出場しました。

2013年に初めて世界選手権に出た頃は気持ち的に前を向いていたんですけど、そこから高校3年生にかけては「体操をやめようかな」と悩むようになりました。世界選手権のときに周りから「メダルが取れる」と言ってもらえていて、自分自身もその時の演技構成ならメダルに手が届くと思い挑みましたが、それが過信だと思い知らされたのが大きかったです。海外の有力選手にボロボロに負けて、メダルも逃し、燃え尽きた感覚になった。体も全然動かないし、気持ちが下を向いて、「もうやらなくていいかな」というところまで行っていましたね。

――そこから再び前向きになれたきっかけは?

1つはジュニア時代からの指導者に「そもそもお前ができるかできないかで今、判断していたら、できるわけないだろ」とズバリ言われて、衝撃を受けたこと。池谷さんにもつねにカツを入れられていましたけど、やっぱりアスリートには厳しい言葉も必要。弱い部分をちゃんと指摘してくれる人がいるかいないかはすごく大きいと思います。

もう1つは、大学進学のことですね。当時の私は体操を引退するなら、大学に行く必要があるんだろうかと疑問を感じていました。でも、自分から体操を取ったら何もなくなる。そんな気持ちも一方にはありました。

高校を卒業して働くことをイメージしてみたんですけど、「だったら、大学を出た方が社会人としてきちんと働けるのかな」と感じた。まず体操ありきではなく、自分の人生、競技を終えた後の第2の人生を踏まえて、大学へ行った方がいいかなという考えに至った。この決断もプラスに働きました。

――進路として選んだのは日体大でした。

はい。父の出身校ですし、自分が高校まで教わった指導者も日体出身で、たまに練習にも行かせてもらっていたんで、日体しか知らない状況でした。そこに行くなら、普通に授業を受けるだけじゃなくて、「せっかく体操をやっているんだから、続けるか」という感覚になったのかな。少し中途半端な決断ではありましたけど、1つの人生の通過点として日体に進む決断をしましたね。

――大学時代は寮生活をして、貪欲にトップを目指しました。

大学時代はいろんな環境から集まった仲間がいて、ポテンシャルの高い選手が揃っていました。高校生までの自分は何でもできちゃうタイプでしたけど、日体では自分の運動神経がないと感じるくらい、周りがすごかったですね。例えば、ラグビー部の友達だったら「どういうプロテイン飲んでるの?」と聞いたり、体作りの方法を教えてもらったりしていました。そうやって沢山の仲間と向き合うことで、自分の考えも自然とまとまっていきましたね。

一方で、トップアスリートを目指すわけではなく、指導者やトレーナーなど別の目標を持って来ている人もいました。すごく面白かったし、刺激を受けることが多かった。自分が所属した体操競技部も、部員がトレーナーをしたり、役員として試合の手続きをしたり、補助をしたりと、いろんな役割を担うことで部活が成り立っていました。そういう組織的な部分も学べて、大学生活はすごく充実していたと思います。

――恵まれた環境で自己研鑽を図り、大学2年だった2016年にはリオデジャネイロ五輪に挑みました。しかし女子団体は4位。個人種目別床もメダルを取れませんでした。

リオの時は結構、簡単な技でポンと床に手を突いてしまって、それでメダルを逃してしまいました。体操人生で初めて後悔しました。自分としてはしっかり向き合ってるつもりだったけど、きちんと向き合っていなかったのではと考えるようになりました。だからこそ、そこから本気でいろんなことに取り組むようになりました。

それまでの私は「大学生になれば精神的にも肉体的にも落ち着く」と言われてきて、その言葉を頼りにしていたし、「いつか収まるでしょ」と楽観視していたところがあったと思います。でもそれじゃダメだと気付いた。励ましてくれるいい仲間もいましたし、体のことを含めて本気で自分自身と向き合うように変化したと思います。

――リオの悔しさが、東京五輪への闘志に火をつけたんですね。

そうですね。大学に入った頃は「リオまでは頑張って、あとの2年間は世界選手権を目指すなり、大学生活を楽しむなりすればいい」という軽い考えでした。だから、「東京五輪を目指すんですか?」と聞かれても、「とりあえずリオに集中してます」と回答しかできなかった。

でも、リオでミスをして悔しい思いをした時に「東京を目指したい」っていう考えが
真っ先に浮かびました。ただ、2020年は社会人2年目。体操というのは特殊な競技で、体にかかる負荷もすごく大きいので、大学卒業と同時に引退するのがほとんどで、東京を目指すことには自分自身も葛藤はありましたね。

それでも、東京五輪は人生で1回あるかないか。すごく貴重な機会ですし、東京で育ってきたので、両親にも見せられるいいチャンスになるなと。だからこそ、きちんとした演技をしたいと強く思って、本気で取り組もうと決意しました。
――大学卒業後は、師事していた瀬尾京子さんの指導をそのまま受けるべく、そのタイミングで発足した「日体クラブ」に残る形になりました。

大学の寮に残って暮らし、18歳の若い選手と一緒に練習する日々でした。それは正直、厳しい部分もありましたけど、東京を目指すうえで環境を変えるのはリスクが大きすぎるという判断もあって、日体に残ってトレーニングを続けました。

待遇的には「体操が仕事」ということで、一応、給料をいただいて、昼練習と夕方練習の間の時間をケアに充てるといった形でした。さまざまな葛藤や迷いもなかったわけではないけど、リオの悔しさがあったから頑張れた。あれがなかったら、五輪に出るだけで満足していたかもしれないなと。その気持ちを忘れないように、一生懸命、取り組みました。

――そして本番を迎えようとしていた2020年にコロナ禍に突入。まさかの五輪1年延期が決まりました。

出場予定のアスリートには事前に伝えられるのかなと思っていたのですが、携帯のニュースではじめて知ってすごい衝撃でした。私のなかで「延期が決まったらもう体操はやらないって言おう」という気持ちもあって、でもやめると言えない自分もいたし、そんな終わり方も嫌でした。自分の考えを発表するタイミングもない状態だったんで、「とりあえず休むだけ休むか」という気持ちになりました。

自粛期間は3カ月くらいあったと思うのですが、その期間は「今、体操をやらなくていいんだ」という感覚で、いったん競技から離れた生活でした。ずっと切羽詰まった状態で東京に向けて必死で進んでいたので、緊張感や緊迫感から抜け出せなかった。その分、休めたことはすごくポジティブでしたし、自然と気持ちも前向きになり、気づいたらまた練習が始まっていました。最初は「1年また練習するのか。キツイな」という感覚はありましたけど、それもなくなっていきましたね。
――いいリフレッシュになったんですね。そして迎えた2021年夏の東京五輪は?

無観客で試合をするのが辛かったですね。両親も普通にチケットに応募して、外れたのに、知り合いの人に譲ってもらえって来るのを楽しみにしていたので、体操場で見せられなかったのはすごく残念でした。

ただ、五輪に対しては「夢を叶えられるところまで来ている」という感覚を持てていました。自分はもともと得意な床で五輪のメダルを取りたいというイメージを描いていて、そこから個人総合、チームでもメダルというのが大きな夢になった。そこに近づいている喜びがあったんだと思います。

実を言うと、床の日の朝に表彰台に乗っている夢を見たんです。その時は1位だったんですけどね(笑)。それで本番前練習にのぞみましたけど、何をやってもすごくいい感触があったて、「今日はイケる日だな」という確信がありました。「夢で見たことを話してしまうと叶わない」と聞いていたので、夢のことはずっと黙っていました(笑)。

実際の本番の時もゾーンに入っている感覚だった。アスリートは気持ちで左右されると思いますけど、最終的にはメンタルが強い人が勝つのかなと。結果的には3番だったけど、夢で見た景色と一緒でした。大学時代の仲間も試合中にLINEのメッセージを送ってくれたりしましたし、みんなに励まされて表彰台に上がれたんでしょうね。

――集大成を最高の形で終えて、2021年に引退されました。

「どういう結果でも東京で引退する」と決意していたので、自分の中ではやり切ったという感じです。体操を普及し、日本を強くするための活動に力を入れていきたいと思いながら、今は日々を過ごしています。
――体操選手は体重のコントロールが必須だと思いますが、食事メニューにきのこを活用することはありましたか?

私はもともと便秘体質で、食物繊維を摂らないと腸内環境がすぐ悪くなりがちです。そのストレスが体調面にマイナス影響を及ぼすことも少なくない。そこでキノコをより多く摂取するようには心がけていました。

自分の体は割と単純で、きちんと栄養素を取れば排出もスムーズになるタイプ。キノコを意識して摂るだけでも全然違いましたし、「最近、調子がよくないから、リセットしたいな」と思う時には、キノコを食べるようにはしていましたね。基本的には全部好きですけど、よく食べていたのはブナシメジですね。友達を呼んでバーベキューをやる時にはエリンギとか他のキノコも入れますよ。

――村上さんはどのように体重のコントロールをしていましたか?

アスリートにはみんなベスト体重があると思います。それをキープする人もいれば、あえて増やしたり、減らしたりする人もいるでしょう。私の場合は同じ数字をキープすることだけ考えていた感じですね。

競技特性を考えても、瞬間的に動く体操は他のスポーツに比べると消費カロリーが少ないので、私は日頃からパワーのつく食事を摂って、練習で減らすという意識で取り組んでいました。とはいっても、そこまで制限することなく好きなものを食べていましたし、外にご飯を食べに行くこともありました。疲れていたら自然とご飯とかエネルギー源を多く摂りたくなりますし、体のサインに従って食事をしていた感じです。

――そこまで徹底的に管理しなくても保てていたんですね。

そうですね。中学から高校にかけての成長期の頃は少し体操が好きじゃなくなったこともあって、友達とご飯を外で食べに行く機会が多くなり、体重がかなり増えました。でもその後、特に大学生から引退するまでの7年間はずっと48キロでほぼ変化しませんでした。

――体が変化する思春期の頃は食事にどう向き合っていたんですか?

正直言って、バランスのいい食事はしていなかったと思います(苦笑)。フルーツしか食べないとか、その場の軽さでどうにかしようとしていたのかな。もともと野菜は嫌いじゃないけど、積極的には手に取らなかったですし、やっぱり肉とかを好んで食べていましたね。アスリートとしての食事というのは今、考えると全然していなかったと思います。

――大学生以降は考え方が変わったということですか?

はい。大学2年の時にリオデジャネイロ五輪に出て、選手村で食事を摂っていた時に、監督から「ちょっと来て」と言われて、マンツーマンの栄養講習を受けることになったんです。私が食べていたものが偏っていたからなんでしょうね。

「この1週間で食べたものを書きなさい」「あなたが緑黄色野菜だと思うもの、タンパク質だと思うものをかき出して」と言われて、実際にやってみたら、圧倒的に野菜が足りなかった。海外だと生ものはあまり摂らない方がいいと言われていたんですけど、火が通っている温野菜とかなら問題ないですよね。それもあまり摂取していなかったので、偏りが生じてしまったでしょう。

そこからは食事や栄養バランスとしっかり向き合うようになりましたね。それが体重コントロールにもプラスに働いたと思います。

――最後にジュニアアスリートにアドバイスはありますか?

やりたいと思ったことは、とりあえずやってみることが一番大事だと思います。
やっぱりやる前に諦めてほしくない。諦めるという選択肢を持ってほしくないんです。自分の可能性は自分にしか開けないですし、実際、トライしてみたら、意外にもいい方向に行くかもしれない。何事も1回は挑戦すべきですし、自分の芯をしっかり貫いてもらいたいと強く思います。

村上茉愛/むらかみまい
1996年8月5日生まれ、神奈川県相模原市出身。
小平第3小学校―武蔵野東中学校―明星高校―日本体育大学―日体クラブ

3歳の時に母親に勧められ体操を始める。小学校時代から池谷幸雄体操倶楽部に所属し、数々のジュニア競技会で多くの優勝を飾り、14歳の時には全日本種目別選手権のゆかで優勝し脚光を浴びる。また、9歳の頃、阿川佐和子原作のTBS系スペシャルドラマ『ウメ子』 (2005年12月5日放送) に、薬師丸ひろ子、深田恭子等と共に主役の河合ウメ子役として出演した経歴を持つ。

2012年に明星高等学校に入学。同年の全日本種目別選手権のゆかで2度目の優勝を果たす。2015年に日本体育大学に入学し、2016年リオデジャネイロオリンピック団体総合に出場しメダル獲得にあと一歩と迫る4位入賞に大きく貢献した。

2017年はカナダ・モントリオールで行われた世界選手権種目別のゆかで、日本女子としては63年ぶりとなる金メダルを獲得。2018年はワールドカップ東京大会、全日本選手権個人総合で3連覇、NHK杯個人総合で2連覇。さらにカタール・ドーハでの世界選手権個人総合で日本女子初の銀メダルを獲得。2021年の全日本体操個人総合選手権とNHK杯でも連続優勝し、東京オリンピック代表の座を掴んだ。

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