能登地震で被災、51歳女性を支えたのは震災遺族との交流だった 「東北の人の苦労を思えばもっと頑張れる」

夫の俊明さん(右)と自宅近くの仮設住宅で暮らす橋詰さん=5日、石川県穴水町(写真映像部・佐藤琢磨撮影)

 「東北の人たちの悲しみや苦労を思えば、私たちはもっと頑張れる」。能登半島地震の発生から7月1日で半年。石川県穴水町の自宅が全壊した自営業橋詰里美さん(51)は、仮設住宅で新たな生活を歩み始めた。避難所では、まとめ役を務め、高齢者らを励まし続けた。長年にわたる東日本大震災の遺族との交流が、不屈の明るさを支えている。(編集部・桐生薫子)

■避難所ではまとめ役、高齢者を激励

 5月に入居した仮設住宅は4畳半2間と狭い。頭上には洗濯物。飼い猫の遊具、趣味のギターが所狭しと並ぶ。「こんなにくっついて。2度目の新婚生活みたい」。照れる夫の俊明さん(55)を意に介さず、ちゃめっ気たっぷりに笑う。
 鉄骨3階の自宅はズタズタになった。穴水中の避難所に行くと、高齢者が新聞紙の上で横たわっていた。自宅からマットレス8枚を引きずり出し、「お古ですが」と配った。
 地域防災に熱心な静岡県富士宮市出身の橋詰さんは防災士の資格を持つ。避難所のまとめ役を買って出た。支援に入ったNPOに協力を求め、段ボールベッドを設置。避難者に清掃や配膳などの仕事を割り振り、環境を整えた。
 「4000万円で建てた家だったのに」。将来を悲観し、不満を漏らす避難者もいた。「家族が生きているだけ幸せじゃない」と励ました。

■震災時に無料電話相談始める

 震災遺族との関わりが背中を押す。橋詰さんは占い師でもある。2011年夏、震災の被災地を対象に無料電話相談を始めると、着信があった。
 疲れ果てた女性の声だった。「大川小のニュースは石川でも流れてますか?」と尋ねられた。うなずくと「実は私、子どもを亡くしたんです」と明かされた。
 津波で児童と教職員計84人が亡くなった宮城県石巻市大川小。遠く離れた能登から無責任に慰めるのが嫌だった。「あなたの気持ちは10分の1も理解してあげられない。でも八つ当たりなら受け止められる」。約10年間、電話やメールの交流が続いた。
 震災で親を亡くし、相手の男性から婚約破棄を告げられた女性もいた。東北の被災地のさまざまな悲しみ、苦しみに寄り添った。
 元日の地震で「被災者」になった。仮設住宅は落選が続き、避難が長引くと涙が出た。13年前、「愚痴っていいよ。不満一つ言わない『天使』でいられる人なんていないから」と励ましたのを思い出した。
 自宅は、進学で別居の娘と息子を含む家族4人のピースサインとともに写真に収め、解体した。再建の見通しは立たない。でも悲観はしたくない。「仮設暮らしを不幸と思うか、幸せと思うか。全ては自分次第だよね」。立ち直る姿を、東北の人たちはきっと見ている。

避難所のまとめ役を担っていた橋詰さん(中)。いつも談笑の輪の中心だった=2月19日、石川県穴水町の穴水中学校(写真映像部・安保孝広)

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