「ミシャ式」誕生の功労者 “ドクトル・カズ”がクラブ史上最高のボランチであり続けた理由【コラム】

広島で長年活躍をした森﨑和幸【写真:Getty Images】

トムソン監督が見抜いた森﨑和幸の「冷静に最適手を選択できる」能力

高校3年生の中島洋太朗がアルビレックス新潟戦のラストプレーで決定的なシュートを放ち、才能を爆発させた。6月26日、エディオンピースウイング広島でのJ1リーグ第20節新潟戦での出来事。ゴールにならなかったことで「爆発しきれた」とは言えない。だが、ボールの引き出し方、冷静さ、相手との駆け引き、そしてギリギリ判断を変える決断力。どれをとっても、才能の証明だ。

彼のような高校生Jリーガーを、広島は過去に数多く輩出してきた。髙萩洋次郎、前田俊介、髙柳一誠、野津田岳人に川辺駿。そして、クラブ史上初めて高校生でプロの公式戦に出場したのは森﨑和幸(以下カズ)。広島に3度の優勝をもたらした史上最高のボランチである。

彼の才能は、中島ほど明確には見えなかった。普通にパスを受け、キープして、パスを出す。たしかにミスはないが、特に決定的な仕事をするわけではない。スピードもなく、身体も決して強くない。なのに、現場の指揮官は彼を高く評価した。

高校3年生のカズを抜擢したのは、広島の第3代監督であるエディ・トムソン。久保竜彦、服部公太、下田崇といった無名だった選手の才能を発掘し、育て上げた名伯楽だ。一方で、スタイルは徹底した堅守速攻。パスワークを得意とするカズにとっては真逆のコンセプトでチームを作っていた。

だが、指揮官はカズの類い稀な才能を見つけていた。

どんな時でもパニックにならず、冷静に最適手を選択できる。パスは正確でミスがなく、フィジカルが強いわけではないのに圧力をかけられてもボールは失わない。ボールワークが巧みで、どこにどう置けば相手が届かないか、分かっていたのだ。視野も広く、ボールを受け取る前から選択肢を複数持っているため、プレスが来ても容易にワンタッチではがすことができる。

トレーニングから見せ付けていたカズのプレーに惚れ込んだトムソン監督は、デビューさせる機会を狙っていた。能力があると分かっていても、18歳の少年に大きなプレッシャーを与えるわけにはいかない。

森﨑和幸は「分かりやすい武器」を持っていなかった影響で一般的評価は上がらず

1999年11月20日、Jリーグセカンドステージ第13節ガンバ大阪戦。J1残留をほぼ手中にしていたトムソン監督は、森保一の出場停止という機会に乗じて18歳の若者を先発でデビューさせた。ここでカズは後半28分まで出場。「緊張した」という彼の言葉とは裏腹に、攻守にわたって安定したプレーを見せて、アウェーでの勝ち点1に貢献した。

彼の能力が分かりやすい形で見えたのは、その年の天皇杯だった。4回戦のアビスパ福岡戦で藤本主税の決勝点を導き出すアシストを記録すると、次の準々決勝で優勝候補の清水エスパルスを撃破する先制アシスト。準決勝ではヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)を相手に7-2と大勝したが、この試合でも藤本のゴールを演出し、3試合連続アシストで決勝進出に大きく貢献した。

2000年元日に行われた名古屋グランパスとの決勝は、「ピクシー(妖精)」ことドラガン・ストイコビッチの独壇場。1得点1アシストの数字だけでなく、緩急のリズムだけで広島の守備陣を崩しきった伝説のゴールを見せ付け、国立競技場を熱狂させた。

だが、少なくとも前半、ピクシーは沈黙。その原動力はカズの守備だった。抜群のポジション取りで相手のパスコースを寸断し、名古屋のシュートを0本に抑えた。一方、広島は3度の決定的シーンを作り出し、間違いなくペースを握った。

だが後半、彼は腰痛を訴えて交代。守備のバランスを失った広島は次々とカウンターを食らい、ピクシーの伝説の舞いに屈してしまった。

試合後、トムソン監督は「カズの交代が痛かった」と率直に語った。それは高校3年生が、チームの中心となっていたことを証明する出来事でもあった。18歳が中心となってチームをタイトル寸前まで押し上げた例は、少なくとも広島では空前絶後だ。

翌年、彼はルーキーイヤーで24試合3得点をマークして新人王を獲得。2001年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)ではのちにチェコの英雄となるGKペトル・ツェフから見事なゴールを奪うなど、クオリティーの高さも見せていた。

だが、小野伸二や中村俊輔、小笠原満男のように決定的なスルーパスやフリーキックなどの「分かりやすい武器」を持っていなかったカズの一般的評価は上がらなかった。2003年に発症した慢性疲労症候群という難病との闘いが続き、練習することすらままならない状況も、不当な評価に輪を掛けた。

広島に移籍してきた選手は軒並み「カズさんがこんなに上手いなんて」とコメント

実際、彼に対しての低評価はメディアだけでなく、対戦相手も同様。2012年からスタートした広島の黄金時代でも、監督・選手の投票で決定されるJリーグアウォーズにおいて、森﨑和幸は優秀選手に1度だけ選出されただけで、ベストイレブンには全く届かなかった。この評価の低さに当時の森保一監督は激怒し、佐藤寿人や髙萩洋次郎らも疑義を呈したことがある。

だが、広島に移籍してきた選手たちは軒並み、こうコメントしていた。

「カズさんがこんなに上手いなんて、知らなかった」

水本裕貴、山岸智、千葉和彦、李忠成、西川周作、塩谷司、工藤壮人。多くの選手たちが驚愕し、そして「一緒にやらないとカズさんの凄さは分からない」と口を揃えた。柏木陽介は「移籍してみて、改めてカズさんの上手さ、凄さが分かった」と言葉を発している。彼のように広島で育った選手たちにとって、森﨑和幸という名前はダイヤモンドだ。

2009年、広島にやってきたミキッチは「カズなら1000万ユーロ(約17億円)で欧州のビッグクラブに移籍できる。チャンピオンズリーグ(CL)で戦える」と太鼓判。2016年に広島でプレーしたピーター・ウタカは、「まるでスティーブン・ジェラードのようだ」と称賛した。2015年の優勝にカズとともに貢献した浅野拓磨は「トレーニングでもカズさんには、びっくりするようなボールの取られ方をされていた。広島で一番驚いた存在だし、一緒にプレーするまで気づかなかった」と語っている。そして、長年のパートナーだった青山敏弘は「カズさんがいなかったら、自分の存在はなかった」としみじみと語っていた。

カズとともに3度の優勝を経験した森保一は、トレーニングで常に彼と話し込み、戦術の構築について互いに言葉をかわし合った。「私よりチームのことは分かっている。カズは間違いなくピッチ上の監督」と絶対的な信頼を寄せていた。

若き日の森﨑和幸を発掘し、育成に一役かった小野剛元監督は、「若い頃から技術だけでなくゲーム全体を把握する力が図抜けていた。私が日本代表監督だったら、間違いなく彼をセレクトしていましたね」と目を細めた。

引退を見届けた城福浩監督は「彼の良さは、外で見ている時よりも一緒のチームになったあとのほうが明確に分かった。仲間が楽にプレーできるように、彼は振る舞える。何より、一瞬で正解を導き出せる能力は抜群で、(引退間際であっても)トップ・オブ・トップでした」と絶賛する。

18歳の中島洋太朗の今後に期待【写真:Getty Images】

18歳MF中島洋太朗は森﨑和幸の後継者候補

そして、カズの成長を温かく見守ってきたミハイロ・ペトロヴィッチ元監督は「戦術眼・技術・予測、あらゆるものが素晴らしい。まさにドクトル・カズだ。彼は常に自分ではなくチームのことを第一に考えていたし、だからこそ彼の意見を参考にして、私は当時の広島を作っていった」と言う。

有名な「ミシャ式」は、2008年に森﨑和幸が試合中に発想して戦術をコントロールしたことが発端となった。だが、もしペトロヴィッチ監督がカズを信頼していなかったら、この戦術を採用していなかっただろう。ミシャ式は間違いなく日本サッカー界に大きな影響を及ぼしたが、その誕生に大きく関わったのが森﨑和幸だったのだ。

新潟戦で決定機を作り出した中島洋太朗は、その3日後の川崎フロンターレ戦では45分プレー。不安定だった前半の広島を見事に立て直し、何気ない1本のパスやポジション取りでチームを前に向かせ、攻勢に転じさせた。働きは地味に見えるかもしれないが、間違いなく広島を牽引したのは18歳の若者だった。

彼について「天才」と表現した塩谷司は、「守備のところで、まだまだ学ばないといけないけどね」と課題を指摘。その彼に「髙萩洋次郎と森﨑和幸、2人のいいところをとったイメージがあると思う」と問い掛けると、「たしかに。そういう雰囲気はあるよね」と頷いた。

とんでもない若者が現れた。ただ、本物のゲームメイカーになれるかどうか、そこはまだ分からない。森﨑和幸は、洋太朗の父・中島浩司にこう評された。

「激しさと頭脳と、両方を持っている選手。クレバーを装ったファイターで、タックルなどは本当に深い。シオ(塩谷)もえぐかったけれど、(カズと比べたら)あいつはまだ、優しい。カズは『これができなかったら死んでしまう』くらいの激しさがある。その闘争本能は外国人選手のよう」

中島洋太朗が攻守にわたって森﨑和幸の域に達する時が来た時、彼はきっと、日本代表を牽引する存在になる。

(文中敬称略)(中野和也 / Kazuya Nakano)

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