【京アニ公判第13回①検察側・弁護側の冒頭陳述】検察側「完全責任能力が認められる」弁護側「精神科医の意見を十分に尊重を」

京都地方裁判所

 (10時29分、青葉被告入廷。上衣は青色パーカ。10時30分開廷)

 裁判長「今日から責任能力に関する審理を始めますがその前に1点。今日はA医師の尋問があり、26日はB医師の尋問があります」

 ◇検察側冒頭陳述

 「それでは、今から責任能力に関する冒頭陳述を始めます。これから、冒頭陳述として責任能力について説明していきますが、配られた冒頭陳述メモに、責任能力に関する検察官の主張の骨格や、判断のポイントが書かれています。まず、責任能力とはどういうものか、また争点について話していきます。責任能力とは一つ目、『良いことと悪いことを区別する能力』、二つ目は『その区別に従って犯行を思いとどまる能力』です」

 「責任能力がないと判断されれば無罪となり、責任能力が著しく低下していたと認められた場合には刑を軽くすることになります。弁護側の主張は、被告が妄想性障害という精神障害にかかっており、その症状としての妄想が圧倒的に影響したとして、心神喪失や心神耗弱の状態だったというものです。これに対し、検察側の主張は、被告が妄想性パーソナリティー障害または妄想性障害という精神障害にかかっており、その症状として妄想はあったが、妄想に支配された犯行ではなく、被告のパーソナリティーが影響した犯行であり、責任能力が著しく低下していた、または責任能力がなかった、とは到底言えず、完全責任能力が認められるというものです」

 「メモの下にはその模式図を載せています。右側に完全責任能力と書いていますが、精神障害の影響により責任能力が低下していた場合でも、完全責任能力が認められます。2番目は責任能力に関する検察官の主張の骨格です。メモには、被告が動機を形成し、事件を起こすまでのイメージ図を記載しており、それを動機パートと犯行パートとしています」

 「まず動機パートについてです。初日の冒頭陳述でも説明しましたが、京アニ大賞に落選した、などの被告の現実のエピソードや、何をしてもうまくいかないという人生観、自己愛が強く他人のせいにしがちなパーソナリティーから、自分は全て失ったのに、京アニや女性監督は成功していて許せないと、筋違いの恨みを募らせ、復讐(ふくしゅう)を決意した、というのが犯行動機の基盤です。妄想が怒りを大きくしたものの、動機形成の過程は正常心理として了解可能であると指摘します」

 「次に犯行パートですが、被告は犯行前に何度もためらった末、自分の意思で犯行を決断しています。犯行方法の選択や、放火殺人計画完遂のための行動は被告自身の判断で合理的で妄想の影響はなく、完全責任能力が認められると主張します。これが、検察官の主張の骨格になります」

 「三つ目は、責任能力の判断のポイントです。みなさんには精神科医2人の話を聞いてもらいますが、その際に留意してほしいことを説明します。精神鑑定を行った2人の医師は、被告の精神障害の症状や妄想が犯行に与えた影響の仕方について証言をしますが、みなさんの責任能力の判断は医師の意見にしばられるわけではありません。これまで見聞きした証拠も、責任能力判断における重要な証拠です。また、良いことと悪いことを区別する能力や、その区別に従って犯行を思いとどまる能力がどういう意味なのかは、法律判断であり、医師が決めることではありません。さらに、それらを判断する基準時は犯行時であることに留意してください」

 「次に責任能力判断の前提となる考え方について説明します。最高裁の平成21年決定では、統合失調症の判例なので疾病名は異なるのですが、犯行当時の病状や幻覚妄想の内容、本件犯行前後の言動や犯行動機、従前の生活状態から推認される人格傾向などを総合考慮して、病的体験が犯行を直接支配する関係だったのか、あるいは影響を及ぼす程度の関係だったのかなど、病的体験と犯行との関係や、本来の人格傾向と犯行との関連性の程度を検討すべきとしています。この判例からすると、精神障害の症状と犯行との関係のみならず、被告人の本来の人格傾向と犯行との関連性を示す事実関係をつぶさにみていく必要があります」

 「また、東京高裁の平成21年判決では、責任能力はその実質が犯人に対する非難可能性にあるところ、この非難可能性については、共同社会に身を置く以上、その秩序維持という観点からも、共同社会あるいは一般人の納得性を考えて規範的に捉えるべきとしており、責任能力についての分析や判断は裁判員が総合的に判定すべきとしています。つまり、責任能力判断は社会的非難可能性の判断と犯行に至るまでの事実関係をつぶさに見ていく必要があります」

 「最後に責任能力判断のポイントについてです。妄想との関係性の問題を(a)、人格との関係性の問題を(b)としています。動機パートでは、被告はどのようなパーソナリティーをもった人物なのか(b)。現実のエピソードや人生歴がどのように犯行に影響したのか(b)。京アニに作品を盗用されたという話や闇の人物などの妄想がどのようにして生まれたのか、妄想があっても、動機が正常心理として了解可能かどうか(a)になります」

 「次に犯行パートです。そこに着目する理由を説明します。善悪を区別し、思いとどまる能力があったかが問題で、実際に思いとどまったかどうかは問題ではない。思いとどまっていたら事件もなかった。重要なのは、思いとどまることが可能だったかどうか、どれだけ思いとどまったかが極めて大きな判断材料です。犯行パートの着目ポイントは、犯行に至るまでの準備や犯行時の行動に妄想の影響はあったのか(a)、被告人自身の判断だったのか(b)、犯行直前は善悪を区別できなくなっていたのか、ためらいや引き返そうということはなかったか(a)(b)。平成27年の最高裁判決で、精神障害の症状が本件のような妄想の場合、その妄想が自分の生命や身体を狙われていて差し迫った内容だったのか。妄想が現実とかけ離れているような虚構だったのかを重視して判断しており、これらを意識してください」

 ◇弁護側冒頭陳述

 「皆さんはこれから2人の精神科医の話を聞くことになります。2人の話を聞いて青葉被告は何をしたのか、なぜしたのか、そしてその責任を問うことができるのか。話し合って判断してもらう必要があります」

 「責任能力とは二つの能力のことです。一つは良いことと悪いことを区別する能力。これを弁識能力とも言います。そして、区別する能力に従って犯行を思いとどまる能力。これを行動制御能力と言います。この能力が欠けている場合、心神喪失で無罪となり、著しく損なわれている場合は心神耗弱で減刑となります。みなさんに気をつけてほしいことは、この能力があったかどうかを判断するのは今の青葉さんの状態ではありません。犯行当時、善悪を区別できる能力があったかどうか。それに従って犯行を思いとどまる能力があったかどうか、判断してください。また、なかったとしてそれが精神障害の症状によるものなのか。さらに、そのどちらも欠けていなければならない訳ではありません。どちらか片方でも欠けている場合は、心神喪失や心神耗弱となります」

 「責任能力についてはさまざまな意見があります。インターネットで『刑法39条はいらない』『人を殺しておいて無罪になるのはおかしい』という書き込みを見たことがあるかもしれません。しかし、責任能力による減刑は日本だけではありません。他の先進国にもあり、古代ローマ時代から存在した法です。ではなぜあるのか。刑罰は犯罪の結果だけで判断されるものではありません。理性があって、悪いことだと分かっているのにそれを乗り越えて犯罪を犯した。これを処罰するのが刑罰です。犯行を自分で止めることはできたのかということを考える必要があります。例えば心臓病で倒れた人が、手に持ったコップを割ったとしても誰も責める人はいません。それはその人のせいではないからです。善悪の区別がつかない、行動が止められない、これはその人にはどうしようもないものです。自らの意思で乗り越えて罪を犯した、そのことが欠けている場合は無罪となります」

 「では責任能力をどのように判断するのか。ポイントは三つです。一つ目は精神科医の意見の位置づけ、二つ目は精神科医の意見を評価する視点、三つ目は刑事裁判のルールの適用です」

 「一つ目の精神科医の意見の位置づけは、平成20年4月25日の最高裁の判例で、精神障害の有無および程度については、専門家たる精神医学者の意見が鑑定等として証拠となっている場合には、鑑定人の公正さや能力に疑いが生じたり、鑑定の前提条件に問題があったりするなど、これを採用し得ない合理的な事情が認められるのでない限り、その意見を十分に尊重して認定すべき、とされています。つまり、責任能力があったか、なかったということの最終的な評価を出すのは、裁判官や裁判員の皆さんです。ただ、責任能力があったかなかったかや、あったとして犯行の審理面にどのように影響したかというのは、精神科医の意見を十分に尊重しなければなりません」

 「これからお話しする2人の医師による障害の有無や程度の主張は食い違っています。この場合、医師の意見をどのようなに評価すべきなのか。先ほどの判例では、鑑定人の公正さや能力に疑いがないか、前提条件に問題がないか、検証しなければならないとなっています。2人の医師の信用性を評価する際に、注目してほしい点が1点あります。それは、刑事裁判の考え方です。刑事裁判では二つの異なる視点から2人を見ます。検察は犯行を犯した被告人に重い罰を与えるため、被告人に不利な視点から光を当てます。弁護側は被告人が軽い刑罰となるように被告人に有利な光の当て方をします。そして、裁判所が両方を公正中立に判断し、光を照らして判断する。これが刑事裁判の考えです」

 「皆さんがこれまでに見た証拠や聞いた証言は人によって受け止め方が違うと思います。報道もさまざまです。だからこそ、刑事裁判ではそれぞれ違う方向から光を当て、中立な裁判所が事実かどうかを判断します。これが過ちを犯すわれわれ人間が、少しでも真実に近づくための英知です。検察や弁護側の立場が影響していないか。A医師は起訴前に検察の依頼で鑑定しました。B医師は起訴後弁護側が裁判所に請求し、裁判所が依頼して鑑定しました。その立場が鑑定結果の違いに影響していないか。弁護側はなにも、検察の依頼した医師だから信用できないと述べているわけではありません。医師としての良心に基づいて公正に判断されていると思います。しかし、検察側が依頼したA医師が資料としたのは、捜査機関が集めた証拠のみです。弁護側が青葉さんから聞き取ったことも出てきていません。供述調書は警察や検察が集めて作ったものです。その基礎となる資料に偏りがないか、それが結論に影響しないか。このことに注意して判断していただきたいです」

 「被告人が有罪かどうかは検察が証明することで、裁判員のみなさまは常識に従い判断していただきたい。起訴状に書かれていることが間違いないと判断すれば有罪、起訴状に書かれていることに疑問を感じたら無罪にしなければなりません。これは責任能力の判断でも一緒です。判断すべきは検察と弁護側のどちらが正しいか、2人の医師のどちらが正しいかではなく、2人の医師の話を聞き弁護側の話を聞き、青葉さんの責任能力があるかどうか、それが間違いないと言えるかどうかということです。2人の医師や弁護側の話を聞き、当時、善悪の区別をつける能力、それに従って犯行を思いとどまる能力の両方を十分に備えていたか。どちらかの能力が著しく低下していなかったか。それが間違いないと言えるか。2人の医師の話を聞き判断してほしいと思います」

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