「4人とも『自分が最高の選手だ』と思っていた」比類なき才能が集まったオランダ黄金世代の功績とは?【EURO】

EURO2024で、苦しみながらもグループステージを突破したオランダ代表。中盤で唯一無二の存在のフレンキー・デ・ヨングが負傷で大会を欠場したものの、大黒柱のフィルジル・ファン・ダイクを中心とした堅守から攻撃に転ずるスタイルで、1988年以来の欧州王者の座を虎視眈々と狙っている。

その歴代のオランダ代表の中で、「デ・フローテ・フィール」(ビッグ4)と呼ばれた4人の天才に導かれ、10年のW杯で準優勝、その4年後の大会では3位と好成績を収めた世代がある。

国民1600万人の誇りであり、夢であった彼ら黄金世代の功績を振り返る。

―――◆―――◆―――

1995年12月のボスマン判決後、エールディビジのレベルはスター選手の流出によって低下。00年のベルギーと共催したEUROでベスト4に終わったオランダ代表も、デニス・ベルカンプやデ・ブール兄弟ら中心選手が30代となり、世代交代という課題を抱えていた。しかし、オランダフットボールの低迷期は思いのほか短かった。

オランダ復活の要因のひとつが、83~84年生まれで当時はまだ10代だったラファエル・ファン・デル・ファールト、ロビン・ファン・ペルシ、ヴェスレイ・スナイデル、アリエン・ロッベンの台頭だ。この4人は、ズラタン・イブラヒモビッチ(当時アヤックス)、小野伸二(当時フェイエノールト)、マテヤ・ケジュマン(当時PSV)らとともにエールディビジを再び活性化させ、欧州カップ戦で強豪クラブとタイトルを争えるレベルまで引き上げた。代表でも03年のEURO予選プレーオフ、スコットランドとの第2レグでファン・デル・ファールトとスナイデルがベテラン勢を引っ張り、6-0で大勝。オランダを本大会へと導いている。

育成大国オランダが輩出した4人の天才たちはビッグクラブへと羽ばたいていき、欧州の最前線でしのぎを削った。そんな彼らをオランダ人は特別な想いを込めて「デ・フローテ・フィール」と呼んだ。英語に直すと「ビッグ4」だ。

【PHOTO】華やかで可憐なスタジアムの華!EUROで躍動する名手たちの妻、恋人、パートナーら“WAGs”を一挙紹介!

「4人とも『自分が最高の選手だ』と思っていた」

そうファン・デル・ファールトが述懐する通り、この世代に比類なき才能が集まった。そのエゴがひとつにまとまると、08年のEUROでイタリア(3-0)とフランス(4-1)を圧倒する破壊力抜群のオランダ代表が姿を現わす。しかし、彼らがまとまりを欠くと、12年のEUROのような3戦全敗の惨劇がオランダ国民を待ち受けていた。

「デ・フローテ・フィール」は当時のオランダ総人口1600万人の誇りであり夢であると同時に、敗北の責任を負う立場でもあったのだ。

この4人より先輩の80年生まれで、欧州屈指のストライカーでありながら「デ・フローテ・フィール」のヒエラルキーに割って入ることのできない名手がいた。それがディルク・カイトだ。4人のような華麗なテクニックは持たなかったが、カイトは自身の能力を熟知していた。

「レンガだけで家はできない。彼らをしっかりと繋ぎ合わせるセメント役が必要なんだ。それが僕だった」

その言葉通り、カイトは無尽蔵のスタミナと献身性を発揮して、彼らとともに10年のW杯準優勝、14年のW杯3位に大きく貢献した。

4人の天才たちは、14年のW杯でのファン・デル・ファールトのメンバー落ちに端を発して、一人また一人とオレンジ色のジャージを脱いでいく。その間、遅々として世代交代が進まず、オランダは16年のEURO、18年のW杯と連続でメジャー大会への出場権を逃し、暗黒の時代を迎えてしまう。

4人の中で最後までオランダ代表で戦い続けたのがロッベンだった。その最後の試合は17年10月、ロシアW杯予選の最終節スウェーデン戦だ。33歳のロッベンはキャプテンマークを巻き、鬼気迫る勢いでゴールを目指すと2度もネットを揺らしてみせた。自らのゴールでチームを勝利へと導いたロッベンだったが、虚しくもオランダはロシアW杯行きを逃してしまう――。

この時はまだ誰も気づいていなかった。スウェーデン戦で奪ったロッベンの2ゴールが、後のオランダ再興の礎になることを。この勝利でUEFAランキング(97年~17年にかけてEURO予選や本大会のシードを決めるために使用された)で、オーストリアをかわして12位に浮上したオランダは、翌18年からスタートしたUEFAネーションズリーグで強豪国が集まる最上位のグループAに滑り込むことができたのだ。

その大会で主軸のフィルジル・ファン・ダイクやメンフィス・デパイ、若手だったフレンキー・デ・ヨングやマタイス・デ・リフトらが躍動。準優勝を果たして暗黒時代を脱し、再び国際舞台へと戻ることができたのだった。

※ワールドサッカーダイジェスト5月2日号の記事を加筆・修正

© 日本スポーツ企画出版社