『リプリー』自身を重ねたアンソニー・ミンゲラ監督が描く、愛の喪失と痛み ※注!ネタバレ含みます

※本記事は物語の結末に触れているため、映画をご覧になってから読むことをお勧めします。

『リプリー』あらすじ

1958年、ニューヨーク。貧乏青年・リプリーは、仕事で訪れたパーティで知りあった富豪からヨーロッパで恋人と遊び呆けている息子・ディッキーを連れ戻してほしいと頼まれる。さっそくイタリアに飛び、大学時代の友人と身分を偽ってディッキーに近づいたリプリーだったが、太陽のように明るく、魅力的なディッキーに次第に惹かれていく…。

パトリシア・ハイスミスの名作の映画化


アメリカの女流作家、パトリシア・ハイスミスが、小説「The Talented Mr.Ripley(才能あるリプリー氏)」を発表したのは1955年のこと。ニューヨークで底辺の生活を送っていた主人公トム・リプリーがイタリアに渡り、そこで自由に暮らす富豪の息子、ディッキーに魅了され、やがては彼を殺害して、彼になりすます。そんな意表をつく物語が展開する。

既成のモラルに反するサイコパス的な犯罪者が主人公だが、なぜか、読者は彼を応援したくなる。思えば1950年代はアメリカの文化の転換点だった。56年に「ハートブレイク・ホテル」でエルヴィス・プレスリーが登場してロックンロールという新しい音楽を広め、『理由なき反抗』(55)や『エデンの東』(55)のジェームズ・ディーンがハリウッドの反逆児として脚光を浴びた。それまでの保守的な価値観を変えるアイコン的な人物たちが生まれた時代でもある。

そんな時代背景を考えると、トム・リプリーという犯罪者もまた、新しい時代の反逆児と考えることができるのかもしれない。

『リプリー』予告

この小説はこれまで何度か映像化されている。60年のルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』、99年のアンソニー・ミンゲラ監督の『リプリー』、2024年のネットフリックス製作で、スティーヴン・ザイリアン監督の『リプリー』(8話)といった作品だ。

配信版を撮ったザイリアンは“Daily Beast”(2024年4月6日)のインタビューの中でこう答えている――「すばらしいキャラクターとストーリーで、何度でも語ることのできる内容だと思う。他人になりすます、という設定はいつの時代でも起こりうる。そして、そんな物語に私たちは惹かれてしまう」。

近年はハイスミスという作家の再評価も進んでいる。彼女の生涯を追った興味深いドキュメンタリー『パトリシア・ハイスミスに恋して』(23)も作られ、同性愛者だった彼女の知られざる私生活も明かされた。また、別名義で発表された小説「キャロル」はトッド・ヘインズ監督の手で映画化され、LGBTQの先駆的な作家としても再注目された。

そんな中でも彼女の初期の代表作「才能あるリプリー氏」は作り手の個性が出せる映像向きの題材。クレマンの『太陽がいっぱい』はアラン・ドロンという稀有なフランスの大スターを生み出したが、次に作られたアンソニー・ミンゲラ版(マット・デイモン主演)はどういう視点で作られているのだろう? この監督は、前作『イングリッシュ・ペイシェント』(96)ではアカデミー作品賞や監督賞も受賞していて、『リプリー』ではオスカーの脚色賞候補に上がった。いくつかのポイントで90年代の『リプリー』の解釈について考えてみたい。

ミュージシャンだったミンゲラ自身を重ねたトム・リプリー像


ミンゲラは2008年に54歳の若さで他界したが、筆者は生前、彼に取材する機会があった。『リプリー』の次作『コールド・マウンテン』(03)のキャンペーンで来日した時だ。「あなたの『リプリー』がとても好きで、サントラ盤も愛聴しています」と言ったら、すごく喜んでくれて、「実は僕自身のすごくパーソナルな部分を託した作品なんだよ。音楽は私にとって、すごく重要な要素で、まずは音楽から作品を考えることも多い」と答えていた。

この映画のサントラ盤に監督自身はこんなエッセイを残している――「音楽は『リプリー』の中心的な存在だ。50年代に書かれたパトリシア・ハイスミスの原作は驚きに満ち、深い部分で人を困惑させる魅力があるが、原作で描かれた絵画のモチーフではなく、音楽こそが、この時代の挑発的な雰囲気をより実感させるものに思えた」

そこで人物たちの自由を代弁する音楽として、この時代の新しい文化の象徴でもあるジャズを中心にすえた。原作のリプリーはケチな税金詐欺で暮らしているが、映画の中の彼はクラシックを愛好する売れないピアニスト。コンサートホールでアルバイトをしながら暗い地下室で不遇な日々を送っている。

しかし、プリンストン大学のジャケットを知人に借りたことがきっかけで運が開け、イタリアに行くことになる。

『リプリー』(c)Photofest / Getty Images

こんな人物設定に関してミンゲラは、アメリカのラジオ界の伝説的なDJのひとり、テリー・グロスの番組“Flesh Air”(99年12月22日)に出演してこんなコメントもしていた。「僕自身は英国でイタリア系移民の子供として育った。英国で暮らすと、どうしても階級の問題を意識させられてしまう」

そんな彼は下の階層という設定のリプリーに感情移入したようだ。映画の中のリプリーは売れないピアニストだが、若い頃のミンゲラはバンドのキーボード担当で、ミュージシャンとしての成功をめざしていたので、ピアニストのリプリーにはミンゲラ自身が投影されているのだろう。

監督は「かつての自分は疎外感を抱えたアウトサイダーだった」と語っているが、マット・デイモン演じるリプリーも、まさに疎外感を抱えた孤独な人物だ。そんな彼がジュード・ロウ演じる上流階級のハンサムなディッキー・グリーンリーフと出会うことで、別の世界へと足を踏み出す。

ミンゲラは新人時代に発表した戯曲がパトリシア・ハイスミス作品に似ているといわれ、以後、原作を愛読していたという。そこへ彼の製作パートナーでもあったシドニー・ポラックから映画化の話が持ち込まれ、さっそく脚本を書き始めた。『イングリッシュ・ペイシェント』が作られる前の話だ。原作権は長年、『太陽がいっぱい』の製作者、ロベール・アキムが握っていたが、彼の死後、ようやくアメリカの製作者たちが版権を取得できるようになり、小説の発表から40年以上が経過し、ハリウッド版『リプリー』が誕生することになった。

キャラクターの心理を託したジャズやクラシックの音楽


ミンゲラが自身でも認めているように『リプリー』では音楽が大きな意味を持っている。ガブリエル・ヤレドが作曲したオリジナル音楽もすばらしく、アカデミー作曲賞候補になっているが、オリジナル曲と既成曲のバランスがすごくいい。

冒頭のニューヨークの場面、リプリーがある集まりでピアノの伴奏をしているが、その時、歌われているのはヤレドのオリジナル曲「ララバイ・フォー・カイン」(ミンゲラ自身が作詞、サントラ盤のボーカルはシニード・オコナー)。カインとは神話に出てくる兄弟、カインとアベルの兄のこと。彼は主への贈り物をめぐって弟に嫉妬心持ち、彼を殺してしまう。罪を犯したカイン像がこの映画のリプリーに託される。

劇中ではリプリーとディッキーに兄弟がいないことが語られ、リプリーは「君は僕にはいなかった兄弟のような存在だ」とディッキーに告げる場面がある。しかし、リプリーはやがては憧れのディッキーを殺害する。そんな哀れなカイン=リプリーへの子守歌が冒頭から流れる。

そして、リプリーがコンサート会場のピアノで弾くのはバッハの「イタリア協奏曲」。彼はホールのアルバイトだが、こっそりピアノの前にすわって演奏する。明るくはずむようなリズムが印象的で、そこには彼が後に訪問することになるイタリアのイメージが託される。イタリアに渡った後は、豪華な部屋のグランド・ピアノでこの曲を弾く場面があり、胸はずむ日々への思いが託される。

彼が令嬢メレディスとオペラに行く場面があるが、そこで上演されているのはチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」。ふたりの男性の決闘場面が描かれる。主人公オネーギンはある時、決闘によって親友のレンスキーを死なせ、そのことを嘆き悲しむ。そんなふたりの関係にリプリーは自分とディッキーの関係を重ねながら見ていて、思わず涙を流してしまう。

リプリー自身はクラシックの愛好家だが、ディッキーが好きだったのはジャズ。原作のディッキーは絵を勉強しているが、映画ではジャズのサックスを吹いている。監督のミンゲラは50年代に頂点を迎えていたジャズを映画の背景として効果的に使っている。

『リプリー』(c)Photofest / Getty Images

そんなディッキーの気をひくため、リプリーはジャズを必死に勉強するが、そんな中でも特に耳に残るのがチェット・ベイカーの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」。その歌声を聴いて、「これは男なのか、女なのか」とリプリーはつぶやく。もともとはトランぺッターとして有名になったチェットの歌声は中性的で、当時はそれゆえのインパクトもあった。

トム・リプリーの性的な傾向もどこかあいまいで、男女ともに気をひこうとする。原作のリプリーは「(自分が)男が好きなのか、女が好きなのか、はっきりしないんだよ」(「リプリー」河出文庫刊、佐宗鈴夫訳)と語る箇所もあるので、そんな彼の性の嗜好性がこの曲には託される。マット・デイモンがチェット風の気弱な声でこの曲をクラブで歌う場面も用意される。また、英国のトランぺッター、ガイ・バーカーと彼のクインテットが、マットやジュードと一緒に舞台に立ち、「アメリカ人になりたい」を歌う楽しい場面も印象的だ。

リプリーとディッキーが浴室でチェスをする場面で流れるのが、マイルス・デイヴィスの「ネイチャー・ボーイ」。ここではインストルメンタルだけだが、実は歌詞がついたバージョンもあり、「彼は海の向こうをさまよっている。シャイで、悲しい目で、賢い。彼はそんな奇妙な少年で、誰かを愛し愛されることを望んでいる」という歌詞で、その内容はこの映画のトムの心模様を映し出している。

さらにこの映画のテーマを集約しているのが、「ユー・ドント・ノー・ホワット・ラヴ・イズ」というスタンダート・ナンバー。ディッキーのひそかな恋人で、彼の子供を妊娠していたイタリア人のシルヴァーナは海に身をなげるが、それを知ったディッキーは悲しみをこらえながらこの曲をサックスで吹く。

また、ディッキーの父親が息子の死後、リプリーやマージと会う場面では、ストリート・ミュージシャンがこの曲をサックスで吹いている。さらにボーカル版がエンドクレジットで流れる。ミンゲラのお気に入りでもある英国のベテラン・ミュージシャン、ジョン・マーティンが独特のかすれた声で、切なく、渋い歌声を聞かせる。「君には愛の意味が分かっていない。その悲しみを知るまでは……」という内容の歌詞で、恋のホロ苦い思いが伝わる。クラシックやジャズの有名曲が次々に登場して、セリフ以上に人物たちの心理が語られていく。

クラシック好きだったリプリーはディッキーとの出会いで、ジャズを知る。楽譜通りに弾くことが重要なクラシックとは異なり、ジャズは即興が命。そんな自由な音楽にふれることでリプリーの精神も解放されていく。「物語の展開と共にリプリーは本物の即興プレイヤーになっていく」と監督はサントラのライナーに書いているが、クラシックとジャズを融合させることで、『リプリー』には音楽映画としても聴かせる。

愛の喪失と痛みにこだわるラブストーリーの監督


実はこの映画は過去を振り返る物語として組み立てられている。この点が原作や他のふたつの映像化作品との大きな違いだ。最初のタイトルバックにはリプリーの顔が登場するが、それはこの映画の最後のショットだ(船室に放心状態となった主人公がいる)。
冒頭、彼はつぶやく――「あの頃に戻れたら、これまでのすべてを消すことができたら……」。そして、彼は喪失と愛の痛みの物語をふり返る。
イングリッシュ・ペイシェント』や後の『コールド・マウンテン』といった代表作で語られるのもまた、痛みを伴う愛の物語だった。前者では戦時中に恋に落ちた人妻との悲痛な体験が回想形式で描かれ、後者では戦時中に離ればなれになった恋人たちの劇的な再会までの道のりがたどられる。その愛の向こう側に死の影がつきまとう点も『リプリー』との共通点だ。
彼のそんなメロドラマ的な嗜好性は『リプリー』にも出ていて、この映画の人物たちもいつも愛に裏切られる。リプリーはディッキーへの恋愛感情を拒絶され、彼を殺害する。プレイボーイのディッキーには恋人マージがいるが、実は彼にはイタリア人の秘められた恋人もいて、彼女はやがては命を絶つ。マージもまた、ディッキーの気まぐれな愛に翻弄されている。令嬢のメレディスは(ディッキーのふりをする)リプリーに恋心を抱くが、その恋にもカゲがつきまとう。そして、ピーターとリプリー。相思相愛の関係になりつつあったが、結局は悲劇的な結末を迎える。この映画の人物たちは、誰もが“報われない愛”を抱えている。

『リプリー』(c)Photofest / Getty Images

後半のリプリー、メレディス、ピーターとのもつれた関係は、原作になく、完全に監督独自の解釈になっている(監督は令嬢のメレディス役を演じるケイト・ブランシェットの才能にほれ込み、出番を増やしてしまったという)。
ピーターは原作にもわずかに登場。「ピーターというのは正直で、疑うことを知らなくて、ナイーブで、思いやりのあるおもしろい男だった」と原作には書かれている(前述の原作より)。彼はディッキーの友人のひとりで、リプリーをアイルランドにある彼の自宅に誘う。ただ、リプリーは「ディッキーとのやや特殊な関係のことが(中略)心をよぎった。ピーターとも同じことが起こりうるのだと思った」(原作より)。
そこで原作のリプリーは彼との関係を深めないが、映画版のリプリーは彼との距離を縮める。やがてリプリーは彼の優しい愛の言葉を聞きながら、おそろしい決断を下す。愛と死は隣り合わせ。そんなミンゲラ好みのクライマックスが、なんともやりきれない印象を残す。
『リプリー』はサスペンス映画として作られているが、この映画の心理的なサスペンスは実は恋愛感情のすれ違いからも生まれていて、そこにラブストーリーを得意としていた監督の個性が見える。

ジョン・シールのすばらしい撮影と豪華なキャスト


映画の撮影を担当しているのは、『イングリッシュ・ペイシェント』でオスカーも受賞しているオーストラリア出身の名カメラマン、ジョン・シール。ナポリの近くにある海辺の町で撮影が行われ、美しい風景が次々に登場するが、ミンゲラ自身はフェリーニやヴィスコンティなどの映画を思い描きながら、撮影に臨んだという(特に『甘い生活』を意識したという)。

人物たちの心理を映し出す小道具として鏡が何度も登場する。その反映する像には別の人物なりきろうとするリプリーの屈折した心理が映し出されていく。時にはピアノの黒い蓋の上に彼の分裂したイメージが投影されることもあり、こうした細部に渡る映像構成がこの映画のスリルを高める。

特にエンディングの船室の鏡の映像は、どこか重い余韻を残す。愛に傷つきながら、犯行を重ね、やがては自分を見失っていく主人公。その引き裂かれた心理が多面的な鏡の中に浮かび上がる。そして、それが実は冒頭のタイトルバックの映像だったことが分かると、思わず最初からもう一度、見直したくなる。海外では今は“カルト・クラシック”と呼ばれ、何度も繰り返して見るファンも多いようだが、それはこうした映像の魅力に負うところも大きいのだろう。

また、オールスターによる豪華なキャストに思えるが、監督は多くの出演者たちがブレイク前にキャスティングをすませていたようだ。マット・デイモンの場合、彼が『グッドウィル・ハンティング』(97)で人気スターになる前に、この映画の初期のラッシュを見て、主人公に抜擢したという。

自身のアイデンティティを模索しているリプリーの人物像は、マットのその後の代表作“ボーン”シリーズのジェイソン・ボーンにも通じる。トム・リプリーは連続殺人犯の役だが、「この映画ではリプリーの怪物的な側面ではなく、人間的で、親しみやすい部分を見せたかった」と前述の“Flesh Air”のインタビューで監督は語っている。

原作の中で主人公は「なんとも冴えない、人にすぐに忘れられてしまう顔」と表現されているので、素朴な顔のマットを起用することで、<誰の中にもあるリプリー的な願望>を表現できると監督は考えたのだろう。

一見、善良に見えながら、息を吐くように嘘をつき、犯行を重ねるリプリー。「とりえのない本当の自分より、ニセモノでもいいから何者かになりたい」というセリフには凡人の切ない思いが託される。不安的な少年の面影を残したこの時期のマット・デイモンだからこそ演じきれた繊細なリプリー像だろう。

主人公が憧れるディッキー役を演じて、この監督と運命の出会いを果たしたのがジュード・ロウ。監督はこの役には少し大人の雰囲気がある英国男優を起用したいと思っていて、不思議なラブストーリー『クロコダイルの涙』(98)で吸血鬼的な役を演じていたジュードを見てディッキー役に抜擢。カリスマ的で、誰もが憧れる存在でありながらも、どこか傲慢で、気まぐれなディッキー。ジュードは本当にハマリ役で、アン・ロスらがデザインした優雅なファッションの着こなしもかっこいい。

『リプリー』(c)Photofest / Getty Images

その後、ミンゲラが手がけた『コールド・マウンテン』、『こわれゆく世界の中で』(06)にも主演。来日した時は監督のことを絶賛していて、「彼のためなら、どんな役でも出演したい」と言っていた。監督の他界後は彼の業績を讃えるメモリアル・イベントも開いている。若きジュードの演技者としての可能性を最大限に広げたのがミンゲラで、『リプリー』と『コールド・マウンテン』でオスカー候補になっている。

他にもディッキーの恋人役にグウィネス・パルトロウ、リプリーに恋をする令嬢役にケイト・ブランシェット、ディッキーの友人役にフィリップ・シーモア・ホフマンなど、後にオスカー受賞者となる俳優たちが出演(監督には先見の明があった)。

そして、後半、リプリーに好意を抱くピーター役を好演しているのがジャック・ダヴェンポートである。ジュードが主演した前述の『クロコダイルの涙』では刑事役。その後は『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ(03~07)や『キングズマン』(14)などにも出演しているが、特に目立った印象はない。こういう埋もれがちな英国男優もうまく使うところに、俳優の演出にたけていたミンゲラの力を感じる。

Netflix版『リプリー』との比較


最後に、全米では絶賛されたスティーヴン・ザイリアンの配信ドラマ『リプリー』との比較について少し書いておきたい。『太陽がいっぱい』や『リプリー』は2時間前後の上映時間だったので、どうしても物語が駆け足になっていたが、配信版は8時間のドラマになることで原作にかなり忠実な完成度の高い作品になっている。脚本・監督のザイリアン(『シンドラーのリスト』/93でオスカー受賞の名脚本家)は80年代に原作を読んだ時から映像化を考えていたという。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(07)でオスカー受賞のカメラマン、ロバート・エルスウィットのスタイリッシュなモノクロ撮影にも圧倒的な力を感じる。

これまでの2作と決定的に異なるのが、トム・リプリーの年齢設定だ。今回のリプリー役のアンドリュー・スコットもディッキー役のジョニー・フリンも40代。原作のリプリーやディッキーは25歳という設定で、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンも、『リプリー』のマット・デイモンも出演時は20代。だから、主人公の犯罪は“青春の過ち”という印象も与えるが、配信ドラマでは中年ふたりの屈折した関係に変なすごみがある。ディッキーが絵を描いているという設定は原作通りだが、中年にさしかかっても、(あまり才能はあるとも思えない)絵にこだわっているあたりは、なんとも痛い印象だ。リプリーにいたっては、完全に社会の敗者で、いかがわしい雰囲気が漂う(英文のタイトルからは“才能ある”の部分がカットされ、ただの『リプリー』になっている)。

マージ役はダコタ・ファニングで、彼女は旅行記を執筆している。他の2作も同じ設定だったが、ライターとしての人生にはあまり重きが置かれていなかった。しかし、今回は彼女の知的な側面が出ている(着ている服もマニッシュで機能的)。彼女は最初からリプリーを嫌っていて、彼をゲイだと思っている(このあたりも原作通り)。

キャストの中で異彩を放っているのが、フレディ役のエリオット・サムナーだろう。ミュージシャン、スティングの娘で、彼女自身もミュージシャンとして活動している。これまで男優が演じてきたフレディ役にノンバイナリーの俳優が扮することで、フレディ役がこれまで以上に強烈なものとなっている。特にトムの豪華なアパートに押しかけ、詰問する場面はすごくスリリングだ。

そして、この映画全体を支えているのは、やはり、アンドリュー・スコットの圧倒的な演技ではないかと思う。一見、特徴のない顔で、口数も少ないが、微妙な感情をうまく表現できる男優で、トム・リプリーというキャラクターの得体の知れない怪しさを見事に見せる。

以前は脇役を演じることも多かったアイルランド出身の実力派だが、23年は彼の躍進の年となった。『異人たち』(23)ではゴールデン・グローブ賞候補となり、舞台のひとり芝居「ワーニャ」(23、日本のナショナル・シアター・ライブでも上映)ではオリヴィエ賞の主演男優賞候補となる。

後者の舞台ではチェーホフの「ワーニャ叔父さん」のすべての人物をひとりで演じていて、本当に圧巻の演技力。男も、女も、演じきれる変幻自在の演技力の持ち主だ。『リプリー』ではトムとディッキーという二役を演じる演技力が必要だが、どんな役も巧みに演じきれるスコットゆえ、説得力のある演技を見せている。

Netflix版『リプリー』予告

スコット自身はゲイの男優だが、はたしてトム・リプリーはゲイなのか? これはアラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』で淀川長治氏が確信を持って指摘したポイントであり、映画版『リプリー』の主人公は男にひかれつつ、女にも言い寄るそぶりを見せていた。原作者のハイスミスは生前、「トムはゲイではない」と公言していて、後の“リプリー”シリーズの小説に登場する彼には妻もいる。

アメリカの批評家の中には「彼はゲイというより、クィア」と指摘する人もいた。クィアはすべての性を総括するような表現なので、トムは性の境界線があいまいな人物と考えることもできるのだろう。

配信版では彼の性のアイデンティティがはっきり描かれない。だからこそ、彼の存在感が妙に謎めいて見えるし、ノンバイナリーの俳優が演じるフレディとの対決場面にも思わず息を飲む。また、同性愛者ともいわれるカラヴァッジオの絵画の使い方もスリリングだ。配信版のモノクロの映像に登場するリプリー像にはこれまでよりドライな印象がある。

劇中にはかつて『リプリーズ・ゲーム』(02、DVDリリース、監督リリアーナ・カヴァーニ)でリプリーを演じたジョン・マルコヴィッチもゲスト出演。実はリプリーが登場する小説は5作あり、ヴィム・ヴェンダース監督の『アメリカの友人』(77)も、『リプリーズ・ゲーム』と同じ原作の映画化。ここでのリプリー役はデニス・ホッパーだった。

最初に書いたようにトム・リプリーは50年代のアメリカに登場した新しいタイプの反逆児だと思う。歴代のリプリー男優をふり返ると、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンは世の裏側を歩く役を得意としていたし、マット・デイモンが出世作『グッドウィル・ハンティング』で演じていたのも世をすねた孤独なアウトサイダーだ。デニス・ホッパーは50年代の『理由なき反抗』や60年代の『イージー・ライダー』(69)に出演し、公私に渡るハリウッドの反逆児として知られてきた。配信版『リプリー』のアンドリュー・スコットは、『異人たち』を見れば分かるようにどこか臆病な敗者の役が得意だ。そして、それぞれの男優たちは、その時代らしいリプリー像を体現してきた。

それだけ長い年月に耐えうる力が、ハイスミスの原作にはあったということだろう。「才能あるリプリー氏」は、人間としてのアイデンティティ、性のアイデンティティの問題をつきつける普遍的な小説となり、映像作品が作られるたびにトム・リプリーがよみがえる。

文:大森さわこ

映画評論家、ジャーナリスト。著書に「ロスト・シネマ」(河出書房新社)他、訳書に「ウディ」(D・エヴァニアー著、キネマ旬報社)他。雑誌は「ミュージック・マガジン」、「キネマ旬報」等に寄稿。ウェブ連載を大幅に加筆し、新原稿も多く加えた取材本「ミニシアター再訪 都市と映画の物語 1981-2023」(アルテスパブリッシング)を24年5月に刊行。東京の老舗ミニシアターの40年間の歴史を追った600ページの大作。

今すぐ観る

作品情報を見る

(c)Photofest / Getty Images

© 太陽企画株式会社