[プレスリリース]平城京左京三条一坊二坪の発掘調査(平城第658次調査)出土木簡について(続報)

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概要

3月の記者発表の後、洗浄作業を継続した結果、さらに1500 点以上の木簡を確認し、出土点数は2500 点を超えた。その結果、以下の点が明らかになった。
・『延喜式』の規定にみえる、大嘗祭で用意される物品と合致する物品名を記した荷札や付札を多数確認した。
・備中国の荷札が多く認められ、国内9郡のすべての郡からの貢納を確認した。

1.はじめに

3 月19 日の記者発表では、大土坑から出土した木簡に、「大嘗分」「大嘗贄」と記され、聖武天皇の大嘗祭に関わるものが含まれていることが確認されましたので、この点を速報的にご報告いたしました。 現在まで、現場から持ち帰った整理用コンテナ約250 箱の大土坑埋土のうち、約6 割の洗浄を終えています。このなかで、大嘗祭に関わるものとみて矛盾しない木簡がさらに増加しておりますので、その内容をご報告いたします。

2.注目される出土木簡

主な出土木簡は、別添資料の通りです。
A 『延喜式(えんぎしき)』践祚(せんそ)大嘗祭、供神雑物(ぐうしんぞうもつ)条にみえる物品と合致する付札(荷札)木簡を確認しました(1~20)。
先に公表した木簡にみえる「大嘗分」「大嘗贄」という記載から、これらの荷札木簡が大嘗祭のための物資に取り付けられていたことが分かりますが、木簡の内容からも、大嘗祭に関わるとみられるものを確認しました。
『延喜式』の規定によると、大嘗祭では、悠紀(ゆき)国・主基(すき)国から供進される新穀や御贄のほかに、特別に用意される御贄や御酒がありました。大膳職(だいぜんしき)と造酒司(ぞうしゅし)が備える「供神御雑物」(神へのお供え物)の規定(27 供神雑物条。参考史料①)と、紀伊国・淡路国・阿波国からの貢納品(由加物(ゆかもの))の規定です(18 由加物条)。現在のところ、木簡群には紀伊国・淡路国・阿波国からもたらされた確実な荷札は認められないことから、木簡にみえる物品は、供神御雑物との関わりが推測されます。ここにみえる多種多様な物品は、海産物、果物、菓子の類からなりますが、このうち以下の物品が木簡にも確認されます。

烏賊(いか)、腊(きたい)、塩、東鰒(あずまあわび)(安房国鰒)、鰒(干鰒(ほしあわび))、堅魚(かつお)、海藻(め)、搗栗(かちぐり)、栗(生栗・干栗・押栗)、干柿(意比(おひ)腊)、梨子(なし)、餅(餅米)、捻頭(むぎかた)(小麦)、酒(濁酒・赤米)

B 備中国の荷札が多く出土し、国内9 郡のすべての郡からの貢納を確認しました(21~33)。
前回の記者発表の段階でも、備中国の荷札が多いという傾向がみられましたが、その後洗浄、整理を進めるなかで、その傾向はさらに顕著といえるようになりました。6 月20 日段階で洗浄を終えている荷札や付札の類は、およそ180 点ありますが、その3 分の2 にあたる約120 点は、備中国と明記されるもののほか、郡名ないし郷名により備中国からもたらされた物品に付けられたものであると推測され、備中国に由来する可能性がきわめて高いとみられます。残りの約3 分の1 は、国郡の記載がないもの、同一名の郷が複数の国や郡に存在し確定できないものなど、国郡不明の荷札や付札が多くを占めており、備中国以外であることが確実な荷札は数点に留まります。
平安時代前期に編纂された『和名類聚抄わみょうるいじゅしょう』という辞書によると、備中国には、都宇つう、窪屋くぼや、賀か夜や、下道しもつみち、浅口あさくち、小田おだ、後月しつき、哲多てつた、英賀あかの9 つの郡が所管されています。郡によって、荷札の出土点数は粗密があるものの、これまでに、9 郡すべてについて、そこからもたらされた物品に付けられたものと判断される木簡を確認しています。都城の一つの遺構から、某国が所管するすべての郡の荷札が出土することはきわめて珍しく、この点からも備中国への集中は特異な現象といえそうです。聖武天皇大嘗祭において、隣国備前国が悠紀国であったこととの関係はなお不明といわざるをえませんが、特定国への集中の意味する点は、なお解明すべく努めたいと思います。

3.出土木簡の意義と課題

現段階での出土木簡の意義は、冒頭の「概要」にも示したとおり以下の2 点です。
1 『延喜式』の規定にみえる、大嘗祭で用意される物品と合致する物品名を記した荷札や付札を多数確認した。
2 備中国の荷札が多く認められ、国内9郡のすべての郡からの貢納を確認した。

3月に公表した木簡のうち「大嘗分」「大嘗贄」と記した木簡は、大嘗祭に用いる物資であることを明記したものとして注目されますが、一緒に廃棄された木簡に、物品名から推測して、大嘗祭に関わるものとみて矛盾しないものが多数含まれていることを確認しました。『延喜式』の記載は、延喜年間(901~923)以前のある時点に成立し、ある期間効力をもった細則をほとんど網羅的に集成したものです。そのため、個々の条文のもととなる規定が定められた時期、効力をもった期間は、必ずしも明らかにできるとは限りません。そうした観点から、出土木簡にみえる物品名が、供神雑物条にみえる物品名と多く一致する点は、この条文のもととなる規定が奈良時代前半にまで遡る可能性を示し、貴重といえます。大嘗祭の儀式次第の詳細は、平安時代前期の『(貞じょう観がん)儀式』を俟たねばなりませんが、詳細な資料に乏しい奈良時代のあり方を検討する上で、今回の木簡群はまたとない分析素材になるとみられます。
次に、今後の課題について述べます。
「大嘗分」と書かれた木簡3 点のうち1 点は、「哲多郡進出」とみえることより、備中国から送られた物品に付けられたと判断されます。現段階の集計によると、貢進国の判明する荷札が備中国に集中するという顕著な特徴が現れています。この事実が示す意味、すなわち『続日本紀』が記す由機(悠紀)国(備前)・須機(主基)国(播磨)ではない備中国に、なぜ、これほどまでに荷札が集中するのかについて、さらに検討を進める必要があります。
加えて、聖武天皇の大嘗宮は、平城宮内の東区朝堂院に設営されたことが判明しています。なぜ平城宮外で大嘗祭に関連する木簡が廃棄されているのか、検出遺構との関係は、なお課題といわざるをえません。文献史料からは確認できない、奈良時代の大嘗祭儀式次第をいかに復原していくか、大嘗祭のために用意された物品の保管や供進のプロセスのなかに、その解が潜んでいるのではないか、と推測します。
鋭意、土の洗浄を進め、出土木簡の全体像の把握に努めるとともに、現段階ではほとんど検討できていない削屑の記載もあわせ検討することで、木簡群の性格解明を進めたいと考えます。今後の洗浄・整理作業の進展にともない、新たな事実が判明すれば、ご報告の機会を設けたいと考えています。

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