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最寄り駅の改札を抜けると、夫の敦志が待っていた。少し早く仕事を終え、食品の買い物をしていた敦志は両手に持っている膨らんだビニール袋を掲げる。
「お疲れさま。買い物ありがとうね」
「全然。エコバッグ持ってくればよかったって後悔してた」
真希は敦志と並んで歩き出し、袋のなかをのぞき込んだ。
「ねえ、また買ったの?」
左手に持っている袋には、パッと見ただけで3袋くらい“シャインクッキー”が入っている。
「いやぁだって好きなんよ、シャインクッキー。思い出もあるしな」
「そうだけど、わざわざ買わなくてもいいのに」
シャインクッキーは「特別な幸運をあなたに」をコンセプトにするいわゆる“ちょっといいお菓子”だ。真希たちが子供のころは特別なおやつの代表的な存在で、パーティーにはケーキかシャインクッキーをと言われるくらいに人気のお菓子だった。母子家庭だった敦志の家庭では、スーパーのポイントがたまると引き換えられるシャインクッキーが、お使いに出たときの何よりのご褒美だったらしい。
1度はメーカーの倒産で製造終了となったシャインクッキーだったが、去年復活を遂げた。もちろんかつての人気を取り戻したとまではいかないが、以来、敦志は見つけるたびに買い込んでは晩酌のお供やおやつにしている。もちろん真希自身も小さいころから食べてきたシャインクッキーには思い入れがあったから、さすがに大量にストックされているのを見ると苦笑いを浮かべこそすれ、悪い気分はしなかった。
義母からの電話
帰宅した真希たちは家事を分担して夕食を済ませる。順番にシャワーを浴びて、発泡酒を開けシャインクッキーをつまむ。敦志のスマホが鳴ったのは、そんな何でもない1日の終わりを楽しんでいるときだった。
電話を受けた敦志の顔はうなずくたびに曇っていく。仕事でミスでもあったのだろうかと、真希は発泡酒を流し込みながら思案する。
中堅の印刷会社で働いている敦志は、ページの抜けや誤植が見つかると場合によっては休日でも関係なく呼び出され、修正作業に当たらされることがある。大手のお菓子メーカーで働き、大企業ならではの福利厚生や勤務体制を知っている真希としては、なんだか大変だなぁと思ってはいるものの、特に口を出したりはしなかった。
電話を終えた敦志が深くため息を吐く。
「大丈夫? 仕事の電話?」
真希の問いかけに、敦志は首を横に振った。
「いや、病院から。母さんが倒れたって」
「えっ?」
想定外の答えに、真希は思わず目を見開く。敦志はもう一度首を横に振っていた。
「あ、いや、そんな大事じゃなくて、家で転んだだけなんだけど、救急車呼んだらしくって。取りあえず今晩は念のため入院して、明日検査して様子見てすぐに退院だって」
「なんだぁ、よかった」
軽い調子で言った敦志に、真希も胸をなでおろす。
「うん、取りあえず明日、様子見に行ってくるよ」
真希はシャインクッキーを頰張った。昔と変わらない味に、思わず頰が緩んでいた。
要介護になってしまった義母
大事ではないと言ったものの、義母の吉江は変形性膝関節症と診断された。
これは膝関節の軟骨が加齢や筋肉の衰えによってすり減ってしまい、曲げ伸ばしした際に痛んだり、炎症によりいわゆる膝に水がたまった状態になってしまったりする病気だった。症状が進むと普通に歩いたり、座ったり、しゃがんだりするのも困難になってしまうが、1度すり減ってしまった軟骨は元に戻ることがなく、病気の進行を遅らせることでしか対処することができないらしい。
転んでしまったことがトドメとなったのか、吉江はこれまで通りに動くことができなくなり、真希たちは介護しなくてはならなくなってしまった。
義実家までは車で15分。介護自体も敦志と協力するのでそれほど大きな負担ではない。しかし車の助手席に座る真希の気分は沈んでいた。
真希は義母の吉江のことがとにかく苦手だった。
真希と敦志が結婚したのは2年前。真希が32歳のとき。友人の紹介で知り合った敦志と結婚し、結婚のあいさつをするときに吉江と初めて会った。結婚後に仕事を続けるのかという吉江の質問に、真希は何気なくうなずき、子供ができてもすぐに職場復帰したいとの話をしたのだが、吉江はどうやらそれが気に食わなかったらしい。
「ほら、うちが母子家庭でしょ。敦志には小さいときから寂しい思いをさせたから、お嫁さんには家にいてあげてほしいのよ。それに女は家庭を守るものじゃない」
「でも、母さん。真希はあのA製菓で働いてるんだよ。俺なんかよりも全然稼ぎもいいし、頼られる立場なんだ」
「情けないこと言わないでおくれ!」
吉江は声を荒らげ、席を立ってしまった。真希は“女は家庭”なんてことをいまだに信仰している人がいることにあっけにとられ、吉江の背中を見送ることしかできなかった。
その後の敦志の説得もあって、結婚こそ認めてもらえたが、吉江との関係は変わらず険悪だった。本当ならわざわざ会いになど行きたくない気持ちが勝っていたが、病気とあってはそうも言っていられず、真希は敦志と一緒に義実家に向かうことにうなずいたのだった。
義実家に着いて敦志が引き戸を開ける。奥から吉江の声がして、2人はあいさつに向かう。
「悪いね、忙しいのに」
リビングで座椅子に座りながら本を読んでいた吉江は、露骨に真希のほうを見ずに言った。
「いや、全然いいよ。来れるのは週末くらいだけど、真希も手伝ってくれるから」
「膝、大丈夫ですか?」
敦志が自然に真希を会話の輪に入れてくれたが、吉江は真希を一見すると、冷たい言葉を吐き捨てる。
「見りゃ分かんだろう。大丈夫だったら、わざわざあんたなんかに来てもらったりしないよ」
先が思いやられるなと思った。それでも真希は笑顔をつくり、何でもない風を装った。
真希は向けられる冷たい態度や嫌みは別として、吉江のことを尊敬してもいた。理由は吉江が敦志を女手一つで育て上げたことだ。それは真希も同じだった。同じシングルマザーの家庭で、真希の母は苦労しながら女手一つで真希を育てた。その大変さを、真希はずっと見てきたから知っていた。
だから真希はどれだけ嫌みを言われても、冷たい態度を取られても、吉江をむげにすることはできず、介護を続けていた。
耳を疑うようなうわさ
その日、敦志は急ぎの仕事が入ってしまい、真希1人で義実家を訪れることになった。敦志は無理しなくていいと言ってくれたが、吉江も困っているだろうと思い、決して感謝されることのない介護へ向かった。
近くのパーキングエリアに車を止め、義実家へ向かう。家から数軒と離れない道路の脇で年配の主婦らしき女性が数人、話をしているのが目に入る。
「また来てたわよ、伊藤さんとこのお嫁さん」
そのまま通り過ぎようとした真希の耳に、聞こえた言葉が引っ掛かる。
「あぁ、なんか最近見かけるわよね。キャバクラで働いてるっていう人でしょう?」
「伊藤さんもかわいそうよね。大事な1人息子がキャバ嬢に引っかかるなんてねぇ」
「あら、そんなこと言っちゃ職業差別になるわよ。コンプライアンスだなんだって最近はうるさいんだから」
「……あの、どういうことですか?」
真希は我慢できずに声をかけていた。井戸端会議を聞かれてしまったと理解した主婦たちの顔は引きつっていた。
「どういうことですか? 私がキャバクラで働いてるってなってるんですか?」
「え、そ、そうでしょ? だって伊藤さんがそう言ってたんだから……ねぇ?」
「そうよねぇ。伊藤さんがおっしゃってたんだもの」
「へぇ、お義母(かあ)さんが……」
真希はそれだけ口にすると、義実家へと急いだ。背中越しに、どうしましょう、聞かれちゃったわ、怖いわねぇ、と救いようのない会話を再開する声が聞こえていた。
●根も葉もない噂を流したのは義母だった……。その真意は? 後編【「息子より稼ぎがいいからって…」バリキャリ嫁とモンスター義母の距離を縮めた“意外”なモノ】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。 マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。