ケガが続いて「本当の松井大輔」を呼び戻す作業に注力した【松井大輔が激白】#12

日本代表FW巻誠一郎(左)と松井撮影=元川悦子

【流浪のファンタジスタ 松井大輔が激白】#12

2010年夏にロシア1部トムスクに移籍して以降、目まぐるしくプレー環境を変えることになった。ロシア、ブルガリア、ポーランドと日本人選手があまり足を踏み入れなかった国々へ赴き、新たなキャリアを築いた。当時の彼は、まさに「辺境フットボーラー」だった──。

ポルトガルの名門スポルティング・リスボン移籍が破談となり、欧州最前線からロシア中部の町トムスクへ赴いた。人口55万人のシベリア最古の町は、予想以上に大きかったとはいえ、英語を話せる人も数えるほど。そこで単身生活を送った。

「欧州の場合、東に行けば行くほど脆弱な経営のクラブが増える傾向があると思いますけど、ロシアは別。トムスクはモスクワから3000キロも離れた遠い場所にあったけど、それなりの資金力はあった。クラブハウスでは、個室も与えられていた。経済的にもサッカー大国だなと感じました」

松井自身は10-11シーズンをフルで戦ってもいいと考えたが、保有権を持つグルノーブルが「どうしても後半戦から戻ってほしい」と強硬姿勢を崩さず、半年足らずでフランスに戻った。

しかし、11年はアジア杯(カタール)での負傷が響き、出場は15試合ほど。クラブは不振を極めて経営問題も重なり、プロ契約選手を保有できない4部に降格。「移籍金なし」でクラブを離れることができた。

「この状況がもう1年早かったら……」と悔やんだが、サッカーの移籍話はタイミングがすべて。

気を取り直して翌シーズンはフランス1部のディジョンへ行ったが、事実上の戦力外扱いを受ける。

苦悩する中、12年夏には、ブルガリアのスラビア・ソフィアに環境を変える決断を下した。

「ケガが続いていたので『本当の松井大輔』を呼び戻す作業に注力しました。グルノーブルに戻った頃に(女優の加藤ローサさんと)結婚し、ディジョンにいた時に上の子が生まれたんですが、妻は乳飲み子を抱えた状態でブルガリアについてきてくれたのもありがたかった。赤ん坊を抱えた僕らにとっては不安もありましたけど、ソフィアは治安が良かった。難しい状況でも前向きに楽しんでくれる妻に助けてもらえました」と心からの感謝を口にする。

ただ、ブルガリアではケガをするたびに痛み止めの注射を打たれるなど医療体制への不信感も募った。結局リーグ11試合出場にとどまり、「日本に帰りたい」思いが強まっていったという。

「しんどい時期が続いて『31~32歳なら日本でまた輝きを見せられるかな』と考えました。いろんな人の話も聞きましたね。そんな中、ポーランド行きの話が来た。カズさん(三浦知良=JFL鈴鹿)に相談したら『求められるチームがあるのならいいんじゃないの』と。それで海外挑戦を続けることに決めました」

レジェンドの言葉が松井の人生を変えた──。

▽まつい・だいすけ 1981年5月11日、京都府生まれ。43歳。2000年に鹿児島実業高からJ京都入り。フランスのルマンを皮切りに6カ国.13クラブを渡り歩いた。YSCC横浜ではフットサルチームにも所属してFリーグに出場。「二刀流」をこなした。04年アテネ五輪出場。10年南アフリカW杯ベスト16。24年4月から横浜FC、浦和の育成部門でコーチを務める。(つづく)

(取材・構成=元川悦子/サッカージャーナリスト)

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