エルヴィス・プレスリーの『エド・サリヴァン・ショー』初出演の裏にあった知られざる裏話

Photo: Steve Oroz/Michael Ochs Archives/Getty Images

エド・サリヴァンがライバルに送った電報

1956年7月2日の月曜日、テレビ司会者のエド・サリヴァンはスティーヴ・アレンに一本の電報を打った。当時『Tonight Show』の司会者だったアレンは、日曜20時から21時の時間帯におけるサリヴァンの一強状態を崩すべく、新たに週末のコメディ/バラエティー番組を任されたばかりだった。そしてその前夜、アレンは視聴率でサリヴァンに圧勝。その理由はたった一つ、エルヴィス・プレスリーが出演したからだ。

21歳のエルヴィスはこのときすでに大人気歌手となっていたが、サリヴァンは腰を振るセクシーなパフォーマンスを理由に、彼をゲストに招くことに消極的な姿勢を保っていた。実際、エルヴィスはその数週間前に『Milton Berle Show』に出演した際、「Hound Dog」を歌いながら腰をくねらせて物議を醸していたのだ。

だが、サリヴァンにとってのライバル局であるNBCはこの騒動を逆手に取り、すぐさま彼をアレンの番組『Tonight Show』に出演させた。その番組でエルヴィスは、燕尾服に身を包んだ”しおらしい”姿でじっと立ったまま、シルク・ハットを被った本物のバセット・ハウンド犬に向かって同曲を歌い上げたのだ。この戦略は、ライバルであるサリヴァンも認めざるを得ないほど見事な成果を上げた。

だからこそ彼は翌日にアレンに向けて「ニューヨーク、NBCテレビのスティーヴン・プレスリー・アレン殿。きみは嫌なやつだな。愛を込めて、エド・サリヴァン」というシンプルな内容の短いメッセージを送ったのである。

<プレスリーのエド・サリヴァン・ショー出演映像>
 

高額な出演料

何に対しても負けず嫌いなサリヴァンにとって、たとえ一週間でもアレンに出し抜かれることは宣戦布告を受けたに等しかった。そこで彼はすぐに、エルヴィスのマネージャーである”パーカー大佐”ことトム・パーカーと、エルヴィスの出演に向けた交渉を開始した。

だがお金にうるさいことで知られるパーカーは、優位な立場にあることを利用して強気な態度に出た。結果として、数ヶ月のあいだにエルヴィスを三度出演させることに決定。しかもその出演料は5万ドルという、当時としては天文学的な数字だった。

そうしてエルヴィスは9月9日の晩に、サリヴァンの番組に初出演することとなった。しかしその矢先、エルヴィスのパフォーマンスを巡っては運命のいたずらとしか言いようのない不測の事態が二つも発生することになったのだ。

 

二つの事件

エルヴィス・プレスリーが『The Ed Sullivan Show』に初出演した1956年9月の歴史的一夜に関しては様々な逸話が語られている。だが20世紀アメリカのポピュラー文化におけるこの重大事件に関しては、ほとんどの人を驚かせる二つの興味深い事実がある。

一つ目はその晩、エド・サリヴァンが自身の番組の司会を務めていなかったということだ。その数週間前、彼はコネチカットの道路で悲惨な交通事故に遭っていた。彼と義理の息子であるボブ・プレヒトの乗る車に、別の車が正面衝突してきたのだ。それによりサリヴァンは肋骨を折り、胸と顔面を打撲。プレヒトも腕と足首を骨折した。その結果、まだ治療中だったサリヴァンは番組に出演できず、当夜はイギリス人俳優のチャールズ・ロートンが司会を務めたのだ。

二つ目に、その傷が完治していたとしても、サリヴァンは普段の拠点としていたニューヨークの劇場でエルヴィスのパフォーマンスを直接目の当たりにすることはできなかった。エルヴィスの演奏は、そこから3,000マイルほど離れたロサンゼルスにあるCBSテレビジョン・シティーのスタジオから放送されたのである。それは当時エルヴィスが、映画デビュー作となるロマンティックな西部劇『やさしく愛して(Love Me Tender)』をロサンゼルスで撮影していたからであった。

 

プレスリーとエド・サリヴァン・ショー

これら二つの要素を考えると、当時のことをあれこれ想像する上で興味深い疑問が湧いてくる。その疑問とは、アレンが視聴率でサリヴァンを負かしていなかったとしても、プレスリーは同年のうちに彼の番組に出演していたか、ということである。洞察力のある人であれば、これに”イエス”と答えることだろう。

確かに初期のエルヴィスの存在は大きな物議を醸していたし、1956年当時、ロックンロールがアメリカ社会に広く受け入れられているとは言えなかった。また、アフリカ系アメリカ人のR&Bに多大な影響を受けたプレスリーのセクシーなイメージと音楽スタイルが、50年代の文化戦争の火種になったことも忘れてはならない。

だが、音楽シーンのトレンドを作り出す立場にあったエド・サリヴァンは、人種的にも社会的にも偏見のない人物として知られていた。そしてエルヴィスは彼の番組への初出演時、アフリカ系アメリカ人作曲家のオーティス・ブラックウェルの「Don’t Be Cruel(冷たくしないで)」とリトル・リチャードのヒット曲「Ready Teddy」(映像を見ると、彼が腰をくねらせ始めるたび、カメラが全身のカットから切り替わる)を披露。

この出演回は、潜在的なテレビ視聴者人口の80%以上にあたる約6千万人が見たと言われている。サリヴァンほどの人物であれば、腰振りとノリの良い音楽を武器とするプレスリーの影響力を十分に理解していたはずだろうし、アレンとの一件がなくてもいずれは彼を出演させていたことだろう。

とはいえ、その数字に表れている通り、サリヴァンに認められたことはエルヴィスにとっても大きな意味を持っていた。確かにエルヴィス・プレスリーは1956年9月9日の前にも全国放送のテレビ番組に何度か出演していたし、彼はすでにロックンロール界の”キング”と呼ばれていた。だが歴史的にみてその正式な”戴冠式”になったのは、『The Ed Sullivan Show』に初出演したあの日だった。

エルヴィスが低い声で映画『やさしく愛して(Love Me Tender)』のテーマ曲を歌い始めると、それが優しいバラードだと知っていまにも卒倒しそうな女性客の声が聞こえてくる。アメリカ社会はその歌声に、白旗をあげるほかなかったのである。否定的な意見を唱える人はいたにせよ、ロックンロールは勝利を収めた。そして結局のところ、エド・サリヴァンはその一端を担ったのである。

Written By Billy Altman

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