851人の避難に対して備蓄は200人分がわずか1日分…能登半島地震から半年 初期の避難所では何があったのか

地震では無事だったのに、その後の避難生活などで体調を悪化させて亡くなる「災害関連死」能登半島地震ではこれまでに70人が災害関連死と認定されている。災害関連死はどうすれば防げたのか、初期の避難所を検証すると様々な課題が浮かび上がってきた。

理由が公表された人の半数以上は”避難所の環境”が一因に

輪島市の平田真由美さん。母、浅井あつ子さんを地震から3日後に亡くした。1人暮らしだったあつ子さんは、1月3日に自衛隊に救出され避難所へ運ばれた。その避難所で容態が急変したという。

平田真由美さん
「いつも寒がらないお母さんが寒がって、低体温になってて」

あつ子さんは病院に搬送されたが次の日の夕方、息を引き取った。死因は低体温症だった。平田さんは当時の避難所の様子をこう振り返る。「布団や毛布はなかったし用意もしていなかった。用意していたらお母さんにも毛布はあたっていただろう」これまでに災害関連死の認定理由が公表された30人のうち、半数を超える16人は”避難所の環境”が体調の悪化につながったことが分かっている。

発災当初の避難所を見た医師「東日本大震災と変わってない」

1月5日から珠洲市の避難所などで診療を行った石巻赤十字病院の植田信策医師。様々な災害現場を見て来た植田医師にとって、当時の避難所は後退すら感じさせる状態だったという。

植田信策医師:
「東日本大震災からこの13年で色々な働きかけをしていって、だいぶ仕組みとしては良くなってきているはずだが、それでもまだ土足のまま雑魚寝をしている、東日本大震災と基本的に変わってないってことが逆にショックでしたね」

混乱を極めた初期の避難所

では、当時の避難所はどのような状態だったのか。「すべてが大変だった。200人ほどの想定の所に800人以上が来た。」珠洲市の飯田小学校で発災当初から避難所の運営にあたった泉谷信七さんは当時の様子をこう話す。元日にこの避難所に身を寄せたのは飯田町の人口をはるかに超える851人。それに対し備蓄は200人分の保存食と水が1日分。2リットルの水を家庭科室からお椀を持ってきて家族ごとに分けて配った。1月6日までは保存食やカップ麺、パンでしのぎ、炊き出しが始まったのは7日からだった。

トイレの問題も深刻だった。「断水で使えない」と言っても使ってしまう人がいて掃除をしても追いつかない。混乱を極めた当時の様子が避難所の日誌に記録されていた。「備蓄物資を勝手に持ち出し、確保している人が何人もいたため注意し回収する」「救急車を呼んでも半日以上来ない」「徐々に精神的に疲労が濃くなり児童が『こんな汚いトイレでしたくない』と泣いている」

災害関連死を防ぐ鍵”TKB48”

発災直後の避難所に必要なことについて植田医師は「TKB48」というキーワードを提唱する。”TKB”のTはトイレ。清潔で十分な数がないとトイレの回数を減らそうとして水や食事を控える人が増え、脱水症状やエコノミークラス症候群になる危険性がある。Kはキッチン。栄養バランスの考えられた温かい食事を意味する。Bはベッド。床に直接横になると体温を奪われるだけでなく、床から舞うほこりを吸い込んで呼吸器障がいを引き起こすリスクを高めるため、段ボールベッドなどを使って就寝環境を整える必要がある。

「実は段ボールベッドは石川県庁には早く来ていたが各市町に行くのが途絶えていた。道路の問題もあるが、それを使う市町役場もどうやって使うのか分かっていなかった」と植田医師は明かす。県や市町に取材をすると、段ボールベッドは1月中旬に県庁から各自治体に運ばれたが、サイズが合わなかったり、家族ごとに間仕切りを用意するのに時間がかかったりと、様々な要因で避難者にいきわたるまで1カ月近くかかったところもあったという。TKB、この3つを48時間以内に避難所に届けること。これらは「あったらいいもの」ではなく「命を守るために絶対に必要なもの」なのだと国や自治体の意識を変えなければならない。

珠洲市の飯田小で発災当初から避難所を運営する泉谷さん。今回の地震を通して「集まって終わりの今までの避難訓練は参考にならない」と痛感したという。避難所で毎日リーダー会議を開いて自分たちで環境を改善してきた経験から、いかに避難所運営の協力者を初期の段階からできるだけ多く集めるかが重要だと話す。「食事関係だけじゃなくて着るものとかお風呂、それぞれに係がいないと難しい。」今後は、新たな避難計画を立てる予定だ。

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