加藤雅也、パリコレ進出もモデルとしての限界を感じた出来事「モデルの世界で一生食べてはいけない」から始めた役者の仕事

加藤雅也 撮影/柳敏彦

『メンズノンノ』創刊号のファッションモデルを務め、パリコレにも出演した経験のある加藤雅也。1988年に俳優デビューし、今もなお活動の場を広げている。近年では地域密着型の映画を撮影することで日本のことをもっと知りたいという彼の「THE CHANGE」とはーー。【第1回/全2回】

「海外に出て、自分が日本のことを全然知らないということに気づかされました」

もともと映画は大好きだったんですよ。親戚が映画館をやっていて、幼稚園の頃からその映画館に預けられていましたね。中学、高校のときは山口百恵さんや松田優作さんに夢中になりました。他にもブルース・リー、ジャッキー・チェン、『トラック野郎』、角川映画など……ジャンルにこだわることなく、なんでも観ていました。

当時、映画は一期一会の時代。配信どころか、レンタルビデオもまだまだ盛んではなかったので、ここで見なければ、一生見ることはできないという感覚でした。

大学時代はお金がなかったので、ロードショーではなく、名画座で一晩かけて何本も見ていました。横浜の天王町のライオン座には日曜日によく行きましたね。ただ、オールナイトですべてを見ようとすると、眠くて眠くて、全部を中途半端に見ることになってしまいます。そこで、どれか1本は寝てしまうと最初に決めて見ていました(笑)。とはいえ、自分が映画に出演するとか、人前に出る仕事をしたいなどとは考えることもなく、夢を持つことすらありませんでしたね。

芸能界入りしたきっかけは、大学生の頃。僕は映画上映の情報はいつも『ぴあ』で探していたのですが、たまたま書店に売ってなくて、ライバル誌の『シティロード』を購入したんです。そこで映画サークルの部員募集記事を見つけました。ちょうど当時住んでいた家から近い場所で会合があったので、顔を出してみたんです。まあ、そのサークル自体は可もなく不可もなくという感じでしたが、そこの主催者が、後にモデルクラブのマネージャーになり、僕をモデルとしてスカウトしてくれたんです。振り返ると、僕の人生の大きな転機は、『ぴあ』が売ってなくて、『シティロード』を買ったことになりますね(笑)。

モデルの世界で、一生は食べていけないな

モデルとして生きて行くと覚悟を決めてからは、ある程度、何か形になるものを示したいと思っていました。両親は学費を出して僕を大学に進学させてくれましたからね。

そうやっていろいろあがいていると、さまざまな縁から『メンズノンノ』創刊号からモデルを務めさせていただく仕事をもらい、さらにはパリコレ進出まで果たすことができました。しかし、ここでモデルとしての限界を目の当たりにします。当時のトップモデルはみんな186センチ越えでマッチョ、183センチの僕は小さすぎたんです。

僕が着ると服が大きくて、ダボダボになってしまって、「モデルの世界で、一生は食べていけないな」って感じました。日本だけを市場とするならば問題ないのかもしれないですが、生涯、日本だけのモデルで食べていた人って当時はいなかったので、このままではどこかで僕のモデル人生も終りがくるのではと、帰りの飛行機の中で考えてましたね。

加藤雅也 撮影/柳敏彦

これまでとは違う表現方法で生きていく必要がある。そう考えて挑戦しようと思ったのが役者です。ただ、事務所に相談をすると、「男性の役者は考えていない」と言われたので、それならばと事務所を変わることになります。

役者としてのデビューは、1988年公開の『クレイジーボーイズ』『マリリンに逢いたい』で主演を務めたときからです。想像以上に運が良くてトントン拍子にものごとが進んでいったのですが、考えてみると僕には何もないとも冷静に分析をしていました。演劇の勉強をしたことがないので、いつか張り子の虎であることは必ずバレてしまう。だから絶対にどこかで自分は役者としての修業をしなければならないと思ってました。

加藤雅也(かとう・まさや)
『メンズノンノ』創刊号のファッションモデルを務め、パリコレにも出演。モデル活動を経て、1988年に『マリリンに逢いたい』で俳優デビュー。現在はラジオDJ、写真家としても活動の場を広げている。近年の主な出演作に『1秒先の彼』『カムイのうた』『カラオケ行こ!』『キングダム』がある。レギュラー番組は『加藤雅也のBANG BANG BANG!』(FM yokohama)。初の著書である『僕の流儀What’s Next?』が発売中。Instagram:@masaya _kato1192

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