「ベイスターズにはヤツがいる2016」vol.2石田健大 “弟”から“兄”へ 這い上がってきた左腕エース

 前半戦。3位で折り返した横浜DeNAベイスターズ。その原動力となったのは一時12球団トップのチーム防御率を誇った投手陣、とりわけ先発投手の活躍は目覚ましいものがあった。その先発陣の中でエース山口と共に勝ち頭となったのが、2年目の石田健大だ。今季開幕からローテを守り、5月には4試合4勝0敗防御0.33で月間MVPを受賞。7月2日の広島戦を6回途中まで1失点で抑えると、昨年の白星と黒星の数を逆転させる6勝目をあげるなど、飛躍の年としている。「僕はこれまでの野球人生、ずっと下からのスタートだったんです。そこから越えるべき目標をみつけて、追いつけ、追い越せで、少しづつ這い上がって来たと思っています」 昨年の開幕時、DeNAベイスターズの先発陣には左腕が誰もいなかった。開幕時2軍でボールも投げられなかった石田健大の覚醒。それはDeNAベイスターズの長年の宿願でもあった“左腕エース”誕生の兆し。翻れば石田は広島県広島市南区出身。それは奇しくも、優勝時の“左腕エース”野村弘樹氏と同じ郷里であり、身体のサイズもピンポイントに符合する……とくれば、狙いは外しようもない。広島の家族は、姉二人と兄・弟からなる5人兄弟の4番目。兄弟の中では口数が一番少なく、負けん気の塊だった次男坊は、兄に憧れて野球をはじめ、両親と2人の姉に愛情を注がれながら成長した。兄弟の中で一番仲が良い次女の真里さんは、自慢の弟が可愛くてしょうがないといったように健大を語る。「健大は兄弟の中でも口数こそ少ないのですが、昔からボーリングでもゲームでも、熱中するとどこまでも突き詰めるタイプでした。高校時代に冗談で『将来の夢は?』とインタビューのマネ事をすると、いつも『甲子園』と即答が返ってくるほど、目標を明確に持ち、その時出来ることに全力で打ち込んでいました。プロ入りが決まった後、母校の小学校で『なんでもいいから1つだけ1番になれることを見つけてください』と話していたのを聞いて、そういうことを考えながら、ずっとやってきたんだな。立派だなって、弟ではありますが人間として尊敬しています」 そんな最愛の家族の元を離れ東京六大学の法政大学に進学した石田は、1年秋から頭角を現すと3年で日米大学野球に選出。4年で左肩を痛めるも、大学通算19勝を手土産に、14年のドラフト2位で横浜DeNAベイスターズに入団した。ちなみにDeNAベイスターズには4つ上の加賀美希昇、3つ上の三上朋也、2つ上の三嶋一輝と歴代の法政大学のエースを務めた先輩たちがいた。ここでも石田は4兄弟の末弟となる。「よく指名された時は『大学の先輩ばかりで嫌じゃないか?』と言われましたが逆ですね。本当に心強かったです。大学時代にも、加賀美さんとは入れ替わりでしたがオフに色々とお話をしてくれていましたし、同部屋だった三上さん三嶋さんにも本当に可愛がって貰いました。……入団前に中畑監督に『前髪を気にしながら投げている』と怒られた時も、どうしていいのかわからず無茶苦茶蒼ざめましたけど、あの時も三上さんと三嶋さんに相談させてもらって事なきを得ましたから(笑)」“弟”は、いつも下から時間を掛けて這い上がって来た。広島の同郷には有原航平(広陵→早稲田大学→日本ハム)が常に立ちはだかっていた。法政大学の4年間で力の差を詰め、追いついたと思ったら、4年生で左肩を故障。プロ入り後もスロースタートを余儀なくされてしまう。その頃、一軍では開幕戦から同期のドラフト1位・山﨑康晃が大活躍。肝っ玉ルーキーは本拠地開幕のお立ち台で「小さな大魔神になります」と宣言し、一気に喝采を浴びるチームの主力となっていた。石田は満足にボールを投げらない日々。焦るなという方が無理だった。「ヤスとは本当に仲がいいんです。でも、開幕からヤスが結果を残して、僕が投げられないでいると、やっぱり、少しは焦りましたし、素直に喜べないところも正直、ありました。でも、長い目で見ると、最初に出遅れたからと言って、その1年がマイナスになるわけじゃない。僕、プロに入ってから無理矢理にでもポジティブに考えるようにしているんです。故障で出られないなら、その間に1軍に出ている人たちより何かを強化すればいい。そこから何年か掛けて取り返せるんだから、1年目は肩を完璧に治してシーズンの最後ぐらいに一軍で投げられればいいかな、と、それぐらいの気持ちでやっていました」今年は割り切って焦らずに1年掛けてじっくりと治そう——。そんな決意を立てるも、石田の左肩は自分が想像していた以上に早く回復してくれた。プロ初登板は前半戦ラスト前、7月14日の巨人戦。この時は緊張から自分の思うようなボールが投げられなかったというが、登板を重ねるごとに落ち着きを取り戻し、4試合目の8月6日中日戦。この試合で石田は並の投手ではないことを世間に披露した。自ら「僕の生命線」という右打者の膝元を貫くストレートに、チェンジアップとスライダー。相手エースの大野を相手に一歩も引かず、8回を3安打1失点三振9を奪う快投は、荒んだオッサンらが涙を流して狂喜するほど、明るい未来を確信できた。だが、それでもプロは甘くない。石田はその後も相手のエース格と互角以上に投げ合うも、勝ち星は思うように伸びず最終的に2勝5敗で一年目を終えた。「結局、試合は作れても勝ちがつきませんでした。いろんな方から『プロで1勝することは誰もができるわけじゃない』ということを聞いていましたが、『1つ勝つことがいかに大変な世界なのか』ということを思い知りましたね。ただ、勝てなかった原因はやっぱり、自分にあったと思います。何故勝てなかったのか。振り返ってみると先取点を取られて主導権を握れなかったこと。後はいい時は考えずともテンポがよくなっているんです。テンポがいいと野手の方にも『打席に入りやすい』と言われます。チームを勝たせる投手になるためには、そのあたりも突き詰めていかなければいけないと思っています」 プロの厳しさを実感するなかで、石田は1年目に様々なことを試していた。何が通用して何が通用しないのか。時にはキャッチャーのサインにも真っ向から首を振るなど、ルーキーではやり難いことも堂々とやってみせた。「これまでの人生でもサインに首を振った記憶はありません。ただ、プロに入ってからはあえてサインに首を振らせてもらいました。それは、僕自身言われるがままただ投げているだけじゃダメだと思ったからです。プロ野球は考えながら投げなければ通用しない。そういう世界に来た以上、自分で考え失敗したら改善してそれを血肉にして成長していかなければいけませんからね」昨年秋。新監督に就任したラミレスは、投手陣全体のテーマとして“インコース攻め”の徹底を掲げると、期待する投手に石田の名前を挙げ、オープン戦に登板する前からローテ入りを明言。その類稀なる勝負根性とマウンド捌きに早くから着目していた。「ラミレス監督が就任されて、一番最初に『ピッチャーはインコースで勝負してほしい』と言われた時は、これは僕にとってチャンスだと思いました。インコースは僕の生命線。これがなければ僕はこの世界を辞めなければいけない。それぐらいに思い入れがある”一番”のボールです。でも去年僕はデータがなかった状態ですし、年間通して働いてもいない。今年が本当の勝負だと思っています。僕自身、相手投手がエースで、0対0や1対0という1点もやれない状況で投げている方が結果がいいんです。今年はそこで勝てる投手になります」 今シーズンローテーションの中心となっている石田は、その立場も去年とは変わってきている。投手陣にはルーキーの今永昇太、そして3年目の砂田毅樹など左腕の“弟分”からの突き上げも激しく、彼らを引っ張る先発左腕の長兄的役割を果たしているようだ。「今永はすごい奴ですよ。キャンプの時からものすごいボールを投げていますし、度胸もいい。ヨシキのコントロールも相変わらず素晴らしいですしね。3人それぞれが違ったピッチングスタイルを持っていますし、チームのためにも全員で勝っていけたらと思います。それ以上に『絶対に負けたくない』って思います。やっぱり一番年上ですからね。これまで下から上を追いかけていたのに、年下から追い掛けられるのは初めての経験です。でも、絶対に負けませんよ。絶対に、です」“兄”としての新境地を開き、頼もしさを増した石田。左腕エースの背番号「21」を着けた今永、尚成から「47」を受け継いだ砂田と共に、左腕王国DeNAベイスターズを引っ張っていく覚悟はできている。(村瀬秀信)

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