「村上春樹を読む」 (59) 歴史から目をそむけるな 「皮剥ぎと原爆」

『ねじまき鳥クロニクル』第1部泥棒かささぎ編(新潮文庫)

 村上春樹には、昭和20年8月へのこだわりがずっとあります。一番はっきりと、それが記されているのは、『ねじまき鳥クロニクル』(1994年―1995年)です。

 この作品の第3部に赤坂ナツメグという女性が出てくるのですが、昭和20年8月、幼い彼女が母親と一緒に中国から引き揚げてくる輸送船の甲板にいると、突然、海の底から米海軍の潜水艦が現れます。潜水艦は「正確に十分後に砲撃を開始する」と伝えてくるのですが、砲撃する直前に〈総員甲板退去〉のサイレンが鳴り響き、大きな白い泡を立てながら潜水を開始して、潜水艦は再び海にもぐっていってしまうのです。日本の無条件降伏を知った潜水艦が、司令部からの命令を受けて戦闘行為を休止したのです。

 その章の最後に「輸送船は覚束(おぼつか)ない足取りで、翌日の八月十六日の午前十時過ぎに佐世保港に入港した」と記されていて、その出来事が8月15日にあったことが分かるのです。

 また『スプートニクの恋人』では、ローマ発の「すみれ」から「ぼく」に届いた手紙の追伸に「たぶん8月15日頃に帰国します」と記されてあるのですが、その5日後にフランスから来た2通目には「ところで、8月15日に日本に戻るという当初の予定は変更になりそうです」とあり、そして「すみれは8月15日になっても戻ってこなかった」とあります。すみれはギリシャで失踪し、「あちら側」の世界に行ってしまうのです。

 これも、日本の近現代史の中で、多くの死者と生者を分かつ日である昭和20年8月15日という日にちを意識した表現だと思います。

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 デビュー作『風の歌を聴け』(1979年)には「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る」と1行だけ記されている第2章があります。この作品は時間の記述が入り組んでいて、登場人物たちが「1970年8月8日―同年8月26日」の間のどの時間に存在しているのが、あまりよく分からないように書かれています。

 その時間を計算してゆく起点は、毎週土曜の夜に放送されている「ポップス・テレフォン・リクエスト」というラジオ番組です。

 この話が始まるという「1970年8月8日」は土曜日で、この土曜の夜にも、そのラジオ番組があって、「犬の漫才師」と呼ばれるDJから「僕」に電話がかかってきます。つまり『風の歌を聴け』は「1970年8月8日」の「ポップス・テレフォン・リクエスト」の場面から物語の時間が動き出しているということになります。

 この「犬の漫才師」が登場するラジオ番組は終盤にもう一度出てきて、その場面が終わると、物語も終わりに向かい始めます。それは1970年の8月22日の土曜の夜のことと思われます。

 もちろん8月15日の土曜にも「犬の漫才師」の番組はあったはずなのですが、なぜか作中に記されていません。そして、その8月15日と思われる日あたりから1週間、「僕」が「ジェイズ・バー」で知り合った「小指のない女の子」は旅をすると言って、その間に彼女は堕胎の手術を受けています。さらに「僕」の分身的な相棒である「鼠」も8月15日ごろから1週間ばかり「調子はひどく悪かった」と記されています。

 その後、「僕」は「鼠」を誘って、ホテルのプールに行くのですが、そうすると空にジェット機が飛行機雲を残して飛び去っていくのが見え、2人は昔見た米軍の飛行機のことや港に巡洋艦が入ると街中がMPと水兵だらけになったことを話しているのです。

 そのように敗戦後の風景のことが記されていて、その一方で放送されたはずの8月15日の「ポップス・テレフォン・リクエスト」が記されていないのです。

 つまり、これは『風の歌を聴け』が、日本の敗戦後の1週間を意識して書かれていることを示しているのではないだろうかと、私は考えています。

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 「一九七三年九月、この小説はそこから始まる」という言葉が、村上春樹の第2作の『1973年のピンボール』にはあって、これは紹介した『風の歌を聴け』の「この話は1970年の8月8日に始まり…」という言葉と対応したものです。おそらく第2作『1973年のピンボール』は、日本の敗戦から1カ月間のことを意識しながら、書かれた作品ではないかと私は考えているのです。

 この『1973年のピンボール』には「208」と「209」という数字が書かれたトレーナーシャツを着た双子の女の子が登場します。私は、これは「昭和20年8月」と「昭和20年9月」のことを表しているのではないかと思います。

 でもこれだけでは、論拠が不足した断定となるかもしれませんね。しかし、例えば『ねじまき鳥クロニクル』では、妻クミコの兄・綿谷ノボルと「僕」が対決して、野球のバットで兄を殴り倒すという有名な場面ありますが、その場面で、「僕」が綿谷ノボルと闇の中で対決する場所はホテルの「208」号室となっています。

 その場面は赤坂ナツメグや彼女の父親をめぐる「一九四五年八月の物語」と交互に語られていく場面です。「208」と「209」のうち、綿谷ノボルとの対決の場として「208」の番号の部屋が選ばれたということは、この「208」は「一九四五年八月の物語」と対応した「昭和20年8月」と考えてもいいのではないかと思います。

 そうやって、第1作『風の歌を聴け』と第2作『1973年のピンボール』は「昭和20年8月」で繋がっていますし、旧満州のことなども含んで書かれた第3作『羊をめぐる冒険』とも繋がっているのだと、私は考えています。初期3部作は、そのような一貫性をもって書かれた作品ですし、『ねじまき鳥クロニクル』をはじめ村上春樹の物語は、そうした歴史意識で貫かれた作品なのだと、私は思います。

 これらのことは、『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書)や雑誌「文学界」(2015年7月号)の「村上春樹の『歴史認識』」などで記しましたので、興味のある人は、そちらを読んでください。

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 今回、考えてみたいのは、こんなことです。

 「村上春樹作品で最も記憶に残る場面は何か」。もし、そんな調査をすれば『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる“皮剥ぎ”と呼ばれる場面を挙げる人も多いのではないか思います。それは昭和13(1938)年、旧満州・モンゴル国境のノモンハンで情報活動していた山本という男が、モンゴル・ソ連軍に捕まり、生きたまま全身の皮を羊用のナイフで剥がされて殺される場面です。あまりに残酷で、世界中の村上春樹作品の翻訳者があそこを訳したくないと言う、血なまぐさい場面です。

 〈この皮剥ぎの場面とは、何なのだろう〉

 そんなことを〈「昭和20年8月」に、こだわり続けている村上春樹〉という視点から考えてみたいのです。

 『ねじまき鳥クロニクル』は、突然行方不明になってしまった妻クミコを夫の「僕」が捜し求めて、取りかえす物語です。「僕」と妻の結婚は妻の実家の反対に遭っていたのですが、妻の実家が信頼する老霊能者の本田さんが、結婚に反対したら非常に悪い結果になると断言してくれたので、2人は結婚できました。

 こんな「僕」たち夫婦の恩人の本田さんは、ノモンハン事件の生き残りです。その本田さんが死んで、形見分けのために戦友の元・間宮中尉が「僕」のところにやってくるのです。そうやって語られるのが、あの皮剥ぎの話です。間宮中尉も本田さんも山本とともに行動していたのです。

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 その皮剥ぎのことを「僕」に語った後、間宮中尉は、続けて、こんなことを話しています。

 「私は片腕と、十二年という貴重な歳月を失って日本に戻りました。広島に私が帰りついたとき、両親と妹は既に亡くなっておりました。妹は徴用されて広島市内の工場で働いているときに原爆投下にあって死にました。父親もそのときちょうど妹を訪ねに行っていて、やはり命を落としました。母親はそのショックで寝たきりになり、昭和二二年に亡くなりました」

 つまり皮剥ぎというショッキングな、思わず目をそむけたくなるような残酷な出来事を目撃した間宮中尉は広島出身で、原爆による、これまた残酷な傷を受けた広島から上京して、「僕」に戦争の歴史を語ったのです。

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 今回の「村上春樹を読む」の冒頭に記したように、『ねじまき鳥クロニクル』の第3部になって、「赤坂ナツメグ」という女性が登場して、「僕」と赤坂ナツメグが東京・青山のイタリア・レストランで話をするようになります。

 そこで、赤坂ナツメグは昭和20年8月15日、日本へ向かう途中、自分が乗った輸送船が米国の潜水艦に沈められそうになったことなどを話すのです。

 赤坂ナツメグは自分の父親が満州の新京動物園の主任獣医であったことを話しますが、その主任獣医の右の頬に「僕」と同じような青黒いあざがありました。つまり赤坂ナツメグの父は「三十代後半の背の高い男で、顔だちは整っていたが、右の頬に青黒いあざがついていた」のです。

 「僕」のほうにも「青いあざ」があります。その「青いあざ」は、ある日、「僕」が井戸の中に入っていて、出てくると突然、右頬にあざが出来ているというものです。その井戸はノモンハンに繋がっていたりする「歴史」の通路のような井戸なのですが、そこから出てくると僕の頬に突然、青黒いあざが出来ているのです。

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 この『ねじまき鳥クロニクル』第3部の第1章は「笠原メイの視点」というもので、「僕」のことを「ねじまき鳥さん」と呼ぶ少女・笠原メイから「僕」に手紙がきます。ちょっと、長いですが、笠原メイの手紙の中から「僕」の「青いあざ」についての部分を引用してみます。

 「ねじまき鳥さんと会わなくなってからも、私はねじまき鳥さんの顔のあざのことをよく考えていました。突然ねじまき鳥さんの右の頬に現れたあの青いあざのこと。ねじまき鳥さんはある日穴ぐまみたいにこそこそと宮脇さんの空き家の井戸の中に入って、しばらくして出てきたらあのあざがついていたのよね。今思いだしてみるとなんだかウソみたいなのだけど、でもそれはほんとうに私の目の前で起こったことなのね。そして私は最初に見たときからずっと、そのあざのことをなにかとくべつなしるしなんじゃないかと思っていました。そこにはたぶん何か、私にはわからない深い意味があるのだろうって。だってそうでなければ、急に顔にあざができたりしないものね」

 笠原メイの手紙には、そんなこと書いてあるのです。

 笠原メイが「そのあざのことをなにかとくべつなしるしなんじゃないかと思っていました。そこにはたぶん何か、私にはわからない深い意味があるのだろう」と言う「僕」の「青いあざ」について、以前も少し考えてみたことがあるのですが、「僕」に「急に顔にあざができた」のは広島の原爆のことと関係しているのではないかと、私は思っています。そのことの理由を以下、記しておきたいと思います。

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 広島の原爆の惨禍を描いた作品では、井伏鱒二『黒い雨』(1966年)が有名です。『黒い雨』の主人公は閑間重松ですが、その閑間重松の被爆の瞬間は次のように記されています。

 「そのとき、発車寸前の電車の左側三メートルぐらいのところに、目もくらむほど強烈な光の球が見えた。同時に、真暗闇になって何も見えなくなった。瞬間に黒い幕か何かに包み込まれたようであった」

 閑間重松は朝の出勤で、電車に乗るために横川駅にいて、ちょうど発車間際の時に原爆に遭いました。「目もくらむほど強烈な光の球」を浴びた後、閑間重松が横川駅から三滝公園に通じる国道を歩いていると、知り合いの夫人から「閑間さん、お顔をどこかで打たれましたね。皮が剥けて色が変わっております」と言われます。閑間が両手で顔を撫でると、「左の手がぬらぬらする。両の掌を見ると、左の掌いちめんに青紫色の紙縒(こより)状のものが着いている」のです。「僕は顔をぶつけた覚えはなかったので不思議でならなかった」「べつに痛みはなかったが、薄気味わるくて首筋のところがぞくぞくした」と『黒い雨』には書いてあります。

 『黒い雨』の閑間重松の顔の青紫色の傷は、被爆の象徴のように繰り返し出てきます。

 例えば『黒い雨』は当初「姪の結婚」という題名でしたが、その姪の矢須子と閑間重松が被爆後、再会する時にも、矢須子は閑間重松の顔を見て、「まあ、おじさんの顔、どうしたんでしょう」と言っています。

 さらに閑間重松が洗面所に行って、水を飲んだり、体じゅうを濡手拭で拭う場面では、「しかし火傷を布で覆っている左の頬は拭えない。ねっとりと布が傷に貼りついているような気持である」とあります。

 そして閑間重松は、傷を受けて以来、ちっとも痛みを感じないので、布を当てがって置いたままにしていたのですが、汗拭きを兼ねて今日は手当をしようと思って、救急袋を取って来て洗面所の鏡に向かいます。

 布で留めた絆創膏を剥がし、そろそろと布を取除くと「左の頬は一面に黒みを帯びた紫色になって、焼けた皮膚が撚(よ)れ縮まって附着しながら段々の層状をなしている」のです。

 『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」の青いあざは右の頬、『黒い雨』の閑間重松の青紫色の傷は左の頬の違いはありますが、ここには一つの関連性があるのかなと、私は思っているのです。

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 『ねじまき鳥クロニクル』の第2部の16章は「笠原メイの家に起こった唯一の悪いこと、笠原メイのぐしゃぐしゃとした熱源についての考察」という長い題名の章ですが、そこには、こんなことが書いてあります。それは「僕」がシャワーを浴びる場面です。

 それに続いて「シャワーを出てタオルで体を拭いてから、歯を磨き、鏡に向かって自分の顔を眺めてみた。右の頬にはまだ青黒いあざが残っていた」と記されているのです。

 これは閑間重松が、体じゅうを濡手拭で拭い、洗面台の鏡で顔の傷を見る場面と同じように、私には感じられます。

 また、『ねじまき鳥クロニクル』のその章では笠原メイがじっと僕の顔を見て、「何か心あたりはないの? どこでどうやってそういう風になっちゃったのか」と「僕」に聞きます。

 「心あたりはまったく何もない」と答えた「僕」は「井戸を出てきてしばらくしてから鏡を見たらできてたんだ。本当にそれだけだよ」と加えています。

 笠原メイは「痛い?」と聞きますが、「僕」は「痛くもないし、痒(かゆ)くもない。少し熱をもっているだけだよ」と答えています。

 「心あたりはまったく何もない」「痛くもない」と「僕」は「青いあざ」について述べているのですが、これも閑間重松の「僕は顔をぶつけた覚えはなかったので不思議でならなかった」「べつに痛みはなかった」という言葉と重なって感じられるのです。

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 さて、旧満州・モンゴル国境のノモンハンで、情報活動していた山本が生きたまま全身の皮を羊用のナイフで剥がされて殺される際、予知能力のある本田さんは直前に逃げて近くに隠れているのですが、間宮中尉は山本と一緒にモンゴル・ソ連軍に捕まってしまいます。そして間宮中尉は山本が生きたまま全身の皮を剥がされて殺されるところを見るのです。その後、間宮中尉は馬の鞍に縛りつけられて、北に2、3時間進んだところの砂漠にある深い涸れた井戸に連れていかれます。彼らはその涸れた井戸の中に間宮中尉が飛び込むように強いるのです。

 間宮中尉は「世界の果ての砂漠の真ん中の、深い井戸の底にひとりぼっちで残されて、真っ暗な中で激しい痛みに襲われる」のです。そして、どれくらい時間が経ったのか、わかりませんが、思いもかけぬことが起きます。

 「太陽の光がまるで何かの啓示のように、さっと井戸の中に射し込んだのです。その一瞬、私のまわりにあるすべてのものを見ることができました。井戸は鮮やかな光で溢れました。それは光の洪水のようでした。私はそのむせかえるような明るさに、息もできないほどでした。暗闇と冷やかさはあっというまにどこかに追い払われ、温かい陽光が私の裸の体を優しく包んでくれました」

 『黒い雨』では「目もくらむほど強烈な光の球が見えた。同時に、真暗闇になって何も見えなくなった。瞬間に黒い幕か何かに包み込まれたようであった」と原爆の光を浴びた瞬間を井伏鱒二は書いています。『ねじまき鳥クロニクル』のこの場面では、洪水のような、むせかえるような明るい光で暗闇と冷やかさはあっというまにどこかに追い払われています。

 光の果たす役割が反転しているようにも読めますが、でもここにも閑間重松と間宮中尉とに重なるものを、私はやはり感じるのです。

 また『ねじまき鳥クロニクル』の第3部には「加納マルタの尻尾、皮剥ぎボリス」という章があって、モンゴル人兵士に山本の皮を剥がさせたロシア人将校ボリスと、ロシア人の捕虜となった間宮中尉が、戦後に出会います。

 間宮中尉は「僕」への手紙の中で「私は、ロシア人将校とモンゴル人による地獄のような皮剥ぎの光景を目撃し、そのあとモンゴルの深い井戸の底に落とされ、あの奇妙な鮮烈な光の中で生きる情熱をひとかけら残らず失ってしまっていたのです」と書いています。

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 さてそこで、今回の問いについて、考えたいと思います。

 あの地獄のような皮剥ぎとは何でしょうか。

 『黒い雨』の閑間重松が、洗面所の鏡で、黒みを帯びた紫色になった左頬を見る場面には、さらにこんなことが書かれています。

 「撚れた皮膚の一端を爪先で摘まみ、そっと引張ると少し痛いので、自分の顔ではあるなと思った。そう思いながら、次から次に剥ぎとって行った」「あらかた僕は撚じれた皮を剥がした。最後に、小鼻のわきの固形化した膿を爪の先で摘まんで引くと、上の端から剥脱して、こっぽりと剥げ、黄色い膿の汁が手首に落ちた」

 この「あらかた僕は撚じれた皮を剥がした」というのも、見方によっては、皮剥ぎのことです。

 広島の爆心地周辺では、原爆の光熱を浴びた人びとの衣服は瞬時に消え去って、皮膚は剥がれて垂れ下がってしまいました。被爆直後、皮膚がなくなってしまったので被爆者が、腕の肉と腹の肉がくっつかないようにするために手を前に出して歩いていたそうです。皮膚がなくなったので、手を下げると腕と腹がくっついてしまうからです。そうやって、被爆者たちは亡くなっていきました。

 『ねじまき鳥クロニクル』で、全身の皮膚を剥がされて、死んでいった情報将校・山本の姿は、原爆によって皮膚が剥がされてしまい、亡くなっていった被爆者の姿と重なって描かれているのではないかと、私は思うのです。

 だからこそ、広島出身で、妹と父が原爆投下で亡くなり、そのショックで寝たきりになって、昭和22年に母親が亡くなったという間宮中尉が“皮剥ぎ”という残虐でショッキングな戦争中での出来事を「僕」に語りに来るのではないかと思います。

 『ねじまき鳥クロニクル』第2部の16章の「笠原メイの家に起こった唯一の悪いこと、笠原メイのぐしゃぐしゃとした熱源についての考察」の「熱源」という言葉や笠原メイに「痛い?」と聞きかれて、「僕」は「痛くもないし、痒(かゆ)くもない。少し熱をもっているだけだよ」と答えるのですが、その「少し熱をもっている」という「僕」の言葉にも、原爆に繋がるものを感じるのです。

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 そして『ねじまき鳥クロニクル』には、長崎の原爆のことも記されています。

 例えば、赤坂ナツメグとその母親を乗せた輸送船が、覚束ない足取りで、昭和20年8月16日に佐世保港に入港したことが記された場面では「十五日の正午に、天皇の終戦の詔(みことのり)がラジオから流されていたのだ。七日前に、長崎の街は一発の原子爆弾によって焼きつくされていた」と書かれています。

 そして、物語の終盤、「僕」は宮脇さんの空き家にある井戸を通って、異界の世界に出て、綿谷ノボルと戦います。綿谷ノボルは、日本を戦争に導いた精神の象徴のような人ですが、「僕」はその綿谷ノボル的なるものと異界で戦い、バットで叩きつぶすのです。

 すると現実の綿谷ノボルは突然、脳溢血のような症状で、意識不明となってしまいます。綿谷ノボルは「長崎で大勢の人を前に演説して、そのあとで関係者と食事をしているときにとつぜん崩れ落ちるように」倒れたと『ねじまき鳥クロニクル』の中で村上春樹は記しています。

 皮剥ぎを語りにきた間宮中尉は広島出身、日本を戦争に導いた精神の象徴のような綿谷ノボルは長崎で倒れているわけですから、村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』の中で、原爆について、物語りたかったことは間違いないでしょう。

 そんな視点から、残酷で目をそむけたくなる「皮剥ぎ」のことを考えてみると、これも原爆の惨禍について、村上春樹が書いているのではないかと思えてならないのです。

 山本の皮が剥がされていくとき、それを横で見ている間宮中尉について、「私は目を閉じました。私が目を閉じると、蒙古人の兵隊は銃の台尻で私を殴りました。私が目を開けるまで、彼は私を殴りました」と村上春樹は記しています。

 今回のコラム「村上春樹を読む」で記した内容から、その言葉を読むと、原爆の惨禍から、目を閉じるな、歴史から目をそむけることなく、よく見なくてはいけないと、村上春樹が述べているような気がしてなりません。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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