「村上春樹を読む」(61) 雨ふりをじっと見ているような ボブ・ディランと『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻』(新潮文庫)

 ボブ・ディランがノーベル文学賞と発表された時に、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)のことを思いました。なぜなら、同作にボブ・ディランのことが繰り返し出てくるからです。

 私が村上春樹を初めて取材したのが、この『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』ですし、村上春樹はこの作品で谷崎潤一郎賞を受けました。今はちがってきているかもしれませんが、当時は谷崎賞を受けると<芥川賞選考委員の資格あり>と言われていた時代でした。36歳の村上春樹が、その賞を戦後生まれの作家として初めて受賞したので、同作で、もう1度、村上春樹にインタビューしています。

 この「村上春樹を読む」は、インタビュー中に聞いた村上春樹の発言によらず、村上作品を読んで、私が感じたり、考えたりしたことを記していますが、でも村上春樹への最初のインタビューと2回目のインタビューが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』なのです。ですから、村上作品を考える時、繰り返しこの作品に帰ってきて、考える自分がいます。

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 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は「世界の終り」という閉鎖系の物語と、「ハードボイルド・ワンダーランド」という開放系の物語が、交互に進んでいく小説です。その2つが、読むうちに響き合ってきて、読む者の心を動かしていくのです。

 ボブ・ディランのことがたくさん出てくるのは「ハードボイルド・ワンダーランド」の物語のほうです。「ハードボイルド・ワンダーランド」の話の各章が始まるところに、カットのような人物の絵が描かれているのですが、その人物の横に「Bob Dylan」と英語で記されているので、この「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうの物語全体がボブ・ディランに捧げられているのかもしれません。

 その「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうの物語の最終盤、主人公の「私」は新宿駅近くのレンタ・カーの代理店で「カリーナ 1800GT・ツインカムターボ」を借ります。ちなみに「カリーナ 1800GT・ツインカムターボ」という言葉が、この後、繰り返し記されていますが、これは「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という<ツインターボ>で進んでいく同作の推進エンジンのことを意味しているのではないかと思います。

 レンタ・カーの電話予約をした後、「私」はレコード店に行って、カセット・テープを6本買っています。その中に『ライク・ア・ローリング・ストーン』の入ったボブ・ディランのテープも入っていました。

 そして「私」はレンタ・カー会社に行って、書類にサインをして「カリーナ 1800GT・ツインカムターボ」を借りると、自動車のデッキにテープを突っ込んでボブ・ディランの『ウォッチング・ザ・リヴァー・フロー』を聴くのです。

 すると、「私」の応対をしてくれた感じの良い若い女性が事務所から出てきて、「これボブ・ディランでしょ?」と聞きます。その時、車の中のボブ・ディランは『ポジティヴ・フォース・ストリート』を唄っていました。「二十年経っても良い唄というのは良い唄なのだ」とあります。

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 レンタ・カー会社の彼女は「ボブ・ディランって少し聴くとすぐわかるんです」と言いますし、その理由は「声がとくべつなの」だそうです。「まるで小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているような声なんです」と言うのです。それに対して、「私」は「良い表現だ」と言って、応えています。

 「私はボブ・ディランに関する本を何冊か読んだがそれほど適切な表現に出会ったことは一度もない。簡潔にして要を得ている」という「私」に対して、彼女のほうは「よくわからないわ。ただそう感じるだけなんです」と言うだけですが、「私」は「感じたことを自分のことばにするっていうのはすごくむずかしいんだよ」と話しています。さらに「みんないろんなことを感じるけど、それを正確にことばにできる人はあまりいない」とも加えています。

 すると突然、彼女は「小説を書くのが夢なんです」と話すのです。

 「私」は「きっと良い小説が書けるよ」と応えていますし、さらに「君みたいな若い女の子がボブ・ディランを聴くなんて珍しいね」と「私」が言うと、「古い音楽が好きなんです。ボブ・ディラン、ビートルズ、ドアーズ、バーズ、ジミ・ヘンドリックス―そんな」とレンタ・カー会社の事務員は話します。

 このやりとりの後、彼女に礼を言って、車を「私」が発進させた時には、車内でディランが『メンフィス・ブルーズ・アゲイン』を唄っていますし、さらにディランが『ライク・ア・ローリング・ストーン』を唄い始めると、「私」は「ディランの唄にあわせてハミングした。我々はみんな年をとる。それは雨ふりと同じようにはっきりとしたことなのだ」と村上春樹はその章の最後を結んでいます。

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 ここで、注目すべきことは、ボブ・ディランと「雨ふり」が組み合わされて記されていることでしょう。

 「まるで小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているような声なんです」というレンタ・カー会社の事務員の彼女の言葉に対して、「私はボブ・ディランに関する本を何冊か読んだがそれほど適切な表現に出会ったことは一度もない。簡潔にして要を得ている」と村上春樹は記していますし、そのようにボブ・ディランのことを語った彼女は「小説を書くのが夢なんです」と言っているのです。

 この言葉に対して「私」は「良い小説が書けるよ」と彼女に述べています。これは、村上春樹が自分の小説のことを語っているのではないでしょうか。自分の小説も「まるで小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているような声」で書かれたものであると。

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 この「雨ふり」というものが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「ハードボイルド・ワンダーランド」の物語にとって、とても大切なものであることは、幾つかの点から指摘することができます。

 このレンタ・カー会社の事務員の彼女が登場する『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の第33章の名前は「雨の日の洗濯、レンタ・カー、ボブ・ディラン」というものです。雨とボブ・ディランが章名に含まれています。

 その章は「雨の日曜日ということで、コイン・ランドリーの四台の乾燥機はぜんぶふさがっていた」という言葉から始まっていて、「細かい雨はまるで何かの状況を世界に示唆するように朝とまったく同じ調子で延々と降りつづけて」います。

 「私」が街を歩いているうちに、洗濯屋の前を通ると、その店先には<雨の日にお持ちになりますと一割引きになります>という看板が出ています。そして、その洗濯屋の店先には縁台のようなものが置いてあって、その「縁台にはかたつむりが一匹這っていた」のです。そうやって、「私」は雨の一日を歩きながら、カセット・テープを買い、レンタ・カーを借りていくのです。

 「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうの物語は、第37章が最後ですが、その最後の文章をまず記してしまえば、「私は目を閉じて、その深い眠りに身をまかせた。ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた」というものです。

 「私」はどこまでもボブ・ディランと「雨」にこだわっているのです。

 「私」は晴海埠頭に「カリーナ 1800GT・ツインカムターボ」をとめて、車のデッキの再生をオート・リピートにしてボブ・ディランのテープを聴き続けながら、深い眠りにつくのですが、ボブ・ディランは『風に吹かれて』も唄っていますし、そうすると「私」はレンタ・カー会社の事務員の彼女のことを考えたりもしています。

 「彼女はボブ・ディランの古い唄を聴き、雨ふりを想うのだ。私も雨ふりのことを考えてみた。私の思いつく雨は降っているのかわからないような細かな雨だった。しかし雨はたしかに降っているのだ。そしてそれはかたつむりを濡らし、垣根を濡らし、牛を濡らすのだ。誰も雨を免れることはできない。雨はいつも公正に降りつづけるのだ」

 そう村上春樹は書いています。この言葉の5行あとで「ハードボイルド・ワンダーランド」の物語は終わっています。

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 さて、このボブ・ディランと強く結びつけられた「雨ふり」とはいったい何でしょうか。

 この「雨ふり」とは、世界を再生させる力ではないでしょうか。

 「ハードボイルド・ワンダーランド」の物語の最終第37章「光、内省、清潔」に「私」が洗濯屋の店先で見たかたつむりのことを、図書館の司書をしている女性に話す場面があります。「私」がかたつむりのことを言うと図書館司書の女性は「ヨーロッパではかたつむりは神話的な意味を持っているのよ」と言い、さらに「殻は暗黒世界を意味し、かたつむりが殻から出ることは陽光の到来を意味するの。だから人々はかたつむりを見ると本能的に殻をたたいてかたつむりを外に出そうとするのね」と語っています。かたつむりに、そんな再生への神話的な力があることが、ここに述べられていると思います。

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 日本人にとって、かたつむりのイメージは、陽光ではなく、「雨」かと思いますが、私は、村上春樹のキーワードの一つは、この「雨」ではないかと考えています。村上春樹作品のキーワードに「雨」という視点を述べると、意外に思う人もいるかと思いますので、少しだけ加えておきましょう。

 レンタ・カー会社の事務員の彼女は「古い音楽が好き」で、ボブ・ディランの次に「ビートルズ」を挙げていますが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の次に発表された村上春樹の長編がビートルズの曲名をタイトルにした『ノルウェイの森』(1987)です。その『ノルウェイの森』は、当初「雨の中の庭」という題名で書き始められたそうです。

 『ひとつ、村上さんでやってみるか』(2006年)という読者との応答集の中で「僕はドビュッシーの『雨の中の庭』というピアノ曲が昔から好きで、そういう雰囲気を持った、こぢんまりして綺麗でメランコリックな小説を書きたいと思っていました。この小説を書き始めたとき、そういう題が内容的にぴったりしているかなと思っていたのですが…」と、『ノルウェイの森』の前の題名の候補について記しています。そう思って『ノルウェイの森』を読んでいくと、雨の場面がかなり出てきます。

 ちなみに、『ノルウェイの森』で「直子」が京都のサナトリウムの森の中で自死した後、直子とサナトリウムで同室だった「レイコさん」が東京の「僕」を訪ね、何十曲もギターを弾く場面がありますが、そこでレイコさんが「ボブ・ディランやらレイ・チャールズやらキャロル・キングやらビーチボーイズやら」を演奏しています。

 また『国境の南、太陽の西』(1992年)の最後はこんな文章で終わっています。

 「僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。広大な海に、誰に知られることもなく密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった。

 誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた」

 さらに『海辺のカフカ』(2002年)の主人公の「僕」は、物語の最後に新幹線で東京に帰るのですが、名古屋を過ぎたあたりから雨が降り始めています。「僕」は車窓の雨粒を見ているうちに、目を閉じて身体の力を抜き、こわばった筋肉を緩めると、「ほとんどなんの予告もなく、涙が一筋流れる」のです。これは「僕」が成長して、感情を取り戻したことを表しているところであり、再生の場面だと思います。

 単行本で全3巻の『1Q84』では、洪水のような雷雨の場面が出てきます。その雷鳴と大雨の中で「天吾」と「ふかえり」が交わり、さらに「青豆」が「リーダー」と対決して「リーダー」を殺害するのです。この大雨の中で「青豆」が「天吾」との子を身ごもっていますので、ここにも「再生」が託されていると思います。

 この他にも村上春樹と「雨」の関係を示す作品はありますが、ともかく「ハードボイルド・ワンダーランド」の物語の終盤にボブ・ディランの曲がたくさん出てくるだけでなく、それが「雨ふり」のことと結びつけられて、「ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた」ことは、その後の村上春樹作品の展開を考えていくうえでも、重要なことではないかと考えています。

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 雨はどんなに阻止しようとしても、世界に平等に降るものです。この世がどれだけ、再生不可能のように見えたとしても「降っているのかわからないような細かな雨」は降り続けているのです。「雨はたしかに降っているのだ。そしてそれはかたつむりを濡らし、垣根を濡らし、牛を濡らすのだ。誰も雨を免れることはできない。雨はいつも公正に降りつづける」のです。そのような、世界の再生へのイメージが託されて、村上春樹作品の「雨」はあると、私は思っています。

 ボブ・ディランのノーベル文学賞を機会に、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読むのもいいでしょう。それ以外にも「雨」が出てくる村上春樹作品を楽しんでみるのもいいと思います。

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 ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞決定は大きな話題となりましたが、その後の展開は(今回のコラムを執筆時点までのことですが)かなり迷走していますね。

 選考にあたったスウェーデン・アカデミー側が何度もボブ・ディランに連絡を試みましたが、レコード会社の関係者たちに接触できただけで、本人との連絡は未だにできないとのこと。これに対して、アカデミーのメンバーの一人が「無礼かつ傲慢だ」と批判したことが報道で伝えられました。さらにこの発言について、アカデミーも「個人的な見解でアカデミーの公式の立場ではない」とする声明を、急ぎ発表したそうです。

 アカデミーがいくら連絡しても、応答しないというボブ・ディランも確かにかなり変わった人だと思いますが、「ノーベル賞を欲しくないのだろう。自分はもっと大物だと思っているのかもしれない。あるいは反抗的なイメージのままでいたいのかもしれない」と述べたというスウェーデン・アカデミーのメンバーの一人もずいぶん偉そうですね。

 だって、候補になっているかどうかも秘密しておいて、急に<授ける>と発表して、それに返答がないとなると、「ノーベル賞を欲しくないのだろう」というのは…。

 どこの国、どこの組織にも、こういうタイプの人はいるかと思いますが、ちょっとどうかと思いますね。やれやれ。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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