「あの時の栄光を覚えている」早実の女房役が語る、苦悩の斎藤佑樹への思い

2010年のドラフト1位で日本ハムに入団した斎藤佑樹投手。その名を全国に知らしめた2006年の夏の甲子園、決勝の駒大苫小牧戦で田中将大(現ヤンキース)と投げ合い、延長再試合の激闘を制して優勝を果たしてから今夏で11年になる。あの夏、斎藤の球を受けていた背番号2は現在、ビジネスマンとして忙しい日々を送っている。早実の元捕手・白川英聖さんは、早大を経て、大手総合商社に入社。28歳となった今、社会現象にもなった甲子園の裏側、プロで苦悩している斎藤への思い、ともに3年間戦ったからこそ知る秘話を明かしてくれた。

現在はビジネスマンとして忙しい日々を送っている白川英聖氏【写真:篠崎有理枝】

あの夏から11年―背番号1に変えた元エースへ「今、与えられた場所で活躍を」

 2010年のドラフト1位で日本ハムに入団した斎藤佑樹投手。その名を全国に知らしめた2006年の夏の甲子園、決勝の駒大苫小牧戦で田中将大(現ヤンキース)と投げ合い、延長再試合の激闘を制して優勝を果たしてから今夏で11年になる。あの夏、斎藤の球を受けていた背番号2は現在、ビジネスマンとして忙しい日々を送っている。早実の元捕手・白川英聖さんは、早大を経て、大手総合商社に入社。28歳となった今、社会現象にもなった甲子園の裏側、プロで苦悩している斎藤への思い、ともに3年間戦ったからこそ知る秘話を明かしてくれた。

 白川さんは小学4年生から地元の軟式野球チームで野球を始めた。早実への進学のきっかけは、中学生の時に見た夏の高校野球、西東京大会だ。

「当時、早実のピッチャーだった小野塚(誠)さん、キャッチャーの山縣(有輔)さんのバッテリーに憧れました。『かっこいいなぁ。あのユニフォームが着たいなぁ』と思って、早実への進学を決めました」

 投手だった白川さんは「早実のエースになりたい」という大きな夢を持って野球部に入部した。しかし、同じ学年には強力なライバルがいた。斎藤だ。

「1年間ピッチャーをやりましたが、実力が全然違いました。斎藤は早いうちからベンチにも入っていたし、チームの1軍にも帯同していました。不公平感は無いけれど『扱いが違うな』という感じはしていました」

 そんな悶々とした気持ちを抱えていた白川さんに、転機が訪れる。

「甲子園の舞台に立ちたい」…捕手転向でエースと険悪になった事件とは

 白川さんの学年には正捕手がいなかったため、和泉実監督はさまざまな同級生にマスクをかぶらせていた。

「『いつか僕に来るだろう』と思っていました。監督から話があった時は『本当に来たな』っていう感じでしたね。1週間くらい時間をもらって考えました」

 白川さんには「甲子園の舞台に立ちたい」という、もう一つの夢があった。絶対的エースの斎藤がいる以上、投手として投げられても2、3番手。そのポジションで投げるよりも、捕手を務めたほうがチームに貢献できると判断した。

「1個下の学年には、キャッチャーをやっている古山(将)がいましたから、レギュラーは確約されていませんでした。それでも『斎藤の後ろを投げるより、キャッチャーの方が頑張れるのかな』と思いました」

「小学生の時に少しだけキャッチャーをやっていましたけど、全国でトップクラスのボールを捕るのは、難しかったですよ」。そう当時の苦労を語る。それでも、正捕手不在のチームのために、早実のエースになるという夢を諦め、必死で練習を続けた。

 そんな中、ある事件が起こる。2年秋の明治神宮大会準決勝で、駒大苫小牧に3-5の逆転負けを喫し、斎藤はこの試合、何度もボールを後ろに逸らした白川さんを非難した。これを機に、エースとは険悪な雰囲気になった。

「お前、何やってるんだ」から猛特訓…甲子園決勝で止めたワンバウンド

「結構、敵対的な発言でしたね。『お前、何やってるんだ』っていう雰囲気でした。今でもあの時の顔をはっきり覚えています。『きついな』という感じでした」

 それから、白川さんはキャッチングの猛特訓を始める。「下手くそでしたから」と笑うが、ピッチングマシーンのボールを身体で受け止め、全身はアザだらけになった。

「原因は僕。僕が変わらないと何も変わらないですから、文句を言わずに練習を続けました」。当時を振り返る白川さんの表情には、斎藤に対する不満は微塵も感じられない。

「とにかく、がむしゃらにやっていました」と、当時の心境を語る。ひたすら練習を続け、自身が思い描いていた早実のエースとしてではなく、捕手として3年春、夏と続けて憧れの甲子園の舞台に立った。

 世紀の一戦となった駒大苫小牧との決勝。1-1の同点で迎えた延長11回表、1死満塁で駒大苫小牧はスクイズを仕掛け、これを察知した斎藤はスライダーを地面に叩きつけた。ボールはバットに当たらず、白川さんはワンバウンドしたボールを体で受け止め、飛び出した三塁走者をアウトに仕留めた。斎藤は白川さんへの信頼があったからこそ、絶体絶命の場面でも低めに投げることができた。

 このまま1-1で延長15回を終了。翌日の再試合を4-3で勝利し、早実初となる甲子園優勝に輝いた。

「辛いこともたくさんあったけれど、甲子園の優勝でかき消されました。本当にいい思い出しか残っていません」

 激闘を制して勝ち取った優勝は、どんな辛い思いにも勝る経験だった。しかし、一方で優勝から10年以上が経った今、当時の記憶が遠のいているとも感じている。

背番号1に戻した元エース「斎藤も、あの時の栄光を覚えていると思うけど…」

「『ここで、こういうプレーがありましたよね』と聞かれても、思い出せなくなってきているんですよ。時々、当時の試合のDVDを見て思い出したりしています。今は、甲子園の優勝ありきの自分ではなくなっていますね。最初からそれを謳って社会人をやっているわけではないので、当然かもしれないですが…。あの夏の記憶が、自分から遠ざかっている感覚はあります」

 今でも、早実野球部のOB会などで当時のメンバーと顔を合わせることがあるという。

「みんな変わらないですね。『また野球をやりたいな』と思いますよ。『駒大苫小牧と試合をやるか』という話題にはなりますけど、仕事が忙しかったり、転勤で地方にいたり、なかなか難かしいですね」

 早実優勝ナインは、高校生の時と何も変わっていない。しかし、活躍の場は甲子園から社会に移り、それぞれが忙しい日々を送っている。その中で唯一、プロ野球選手として奮闘しているのが斎藤。1年目の2011年は6勝、翌2012年には5勝を挙げたが、2013年以降はわずか3勝と苦しんでいる。苦楽をともにしたエースには、特別な思いがある。

「斎藤も、あの時の栄光や調子が良かった時のピッチングフォームを覚えていると思うけど、それに戻すために練習しているわけではないと思うんです。今、与えられた場所で活躍をしなきゃいけない。体も変わってきているでしょうから、今のベストの状態に向けて取り組んでいると思います」

 斎藤は今シーズン、背番号を「18」から早実時代の「1」に変更。投球フォームも当時のものに近づけている。甲子園の優勝から11年目となる今年、プロでの経験を積んだ新たな背番号1の姿を、かつての女房役も期待している。 

篠崎有理枝●文 text by Yurie Shinozaki

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