【特集】なぜ関西で炭鉱展なのか 今に生きるメッセージとは

By 佐々木央

閉山20年展のポスター
炭鉱社宅の模型(閉山20年展の図録より)
炭鉱展の準備をする「関西・炭鉱と記憶の会」の人たち
閉山1年後の三池炭鉱三川坑の風景(図録より)

 戦前から戦後の一時期までエネルギーの主役だった石炭は、石油にその地位を取って代わられ、1950年代以降、厳しい合理化の波に洗われた。出炭量日本一だった三池炭鉱の閉山は97年3月30日。閉山20年の今年、5月5日から9日まで大阪市のエル・おおさかで「炭鉱の記憶と関西~三池炭鉱閉山20年展」が開かれる(6月6日から30日まで関西大学博物館で巡回展)。

 それにしても関西には炭鉱は存在しなかった。なぜ大阪で炭鉱の記念展なのか。

 ▽資料と記憶を未来に残す

 企画の中心になったのはエル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)。館長の谷合佳代子さん(58)はこう話す。

 「石炭というエネルギーは、関西も含め日本人の生活の根幹を支えた。また関西には、九州の産炭地から仕事を求めて移り住んだ人やその家族が、おそらく十数万人います」

 炭鉱に関わる資料や記憶・文化は、関西の人々にも大きな意味を持って存在し、生き続けている。それらを集め、心に刻み、未来に残すこと。それが記念展の狙いだ。

 準備を担ったのは、三池炭鉱のあった福岡県大牟田市や熊本県荒尾市にかつて暮らした市民、炭鉱に関心を持つ研究者、学生らのボランティアだ。3年前に「関西・炭鉱と記憶の会」を立ち上げ、議論を重ね、映画上映会などのプレ企画も開いてきた。

 中でも滋賀県彦根市の前川俊行さん(64)の情熱は大きな推進力となった。炭鉱の記憶や資料を集めて発信する「異風者からの通信」を出し続けている人だ。

 三池炭鉱の緑ケ丘社宅で生まれ育った。父は三池労組員。「総資本対総労働の闘い」と呼ばれた60年の三池闘争を経て解雇され、小2のとき家族で岐阜へ、さらに京都へと転々とした。

 「初めは郷愁でした。三池の閉山でこのままでは懐かしい炭鉱がなくなると思った」。記録に残したいと「異風者からの通信」を始めたが、三池で働き、じん肺訴訟の原告にもなった男性から「炭鉱には負の歴史もあった」と手紙が届く。

 ▽深く結び付いた労働者・家族たち

 三池闘争では労組員が暴力団に刺殺され、3年後には炭じん爆発事故が起きて458人が死亡、839人が一酸化炭素(CO)中毒に苦しむ戦後最大の労働災害となる。展示の柱となった前川さんのコレクションには、これらの資料も多く含まれている。

 もちろん、展示は負の歴史ばかりではない。炭鉱社宅での生活は模型や人形を使って再現された。前川さんや18歳まで社宅で暮らした東川絹子さん(69)、上田茂さん(68)らが、社宅の地図に詳細な注を付け、さらに体験や思い出を記して、模型に血を通わせた。

 東川さんは「大人も子どもも力を寄せ合って暮らしを築いていた」と話す。記された多くのエピソードによって、その姿が眼前によみがえる。

 炭鉱は豊かな文化も生みだした。労働者の闘いに連動してサークル活動が盛んに行われ、文学や美術、音楽が街に広がっていた。展示はこうした文化的側面にも光を当て、大牟田で育った漫画家・萩尾望都さんや映画監督・森崎東さんらと、炭鉱との関わりも紹介する。

 炭鉱社宅の暮らしを再現する過程に同伴した関西学院大非常勤講師の西牟田真希さん(36)は「関西からの記憶をなぜいま記録するのかという問いが何度も交わされた」と振り返る。

 「炭鉱労働者は常に生命の危険と隣り合わせて働く。だからお互いが深く率直に結びつき、それが社宅の暮らしにも反映していました。子どもたちにも誠実さや信頼が育まれ、その後の人生をも貫くことになった。それこそが記録するべきものであり、それは現代や次代を生きる人へのメッセージにもなっています」(共同通信=佐々木央)

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