横浜・米軍機墜落から40年、悲劇語り継ぐ思い新た 犠牲者に皮膚提供の女性

 1977年9月に横浜市緑区(現・青葉区)の住宅街に米軍機が墜落し、9人が死傷した事故から40年。犠牲になった土志田和枝さん=享年(31)=への皮膚提供者で、遺族との付き合いを続けている女性がいる。相模原市南区の岩崎恭子さん(80)。「遺族の思いに寄り添いながら、語り継いでいかないと」と話す。

 岩崎さんが30日に訪れたのは、横浜市青葉区にある「ハーブガーデン和枝園」。命を落とした和枝さんと幼い息子2人をしのんで、父親の故・土志田勇さんが慰霊碑とともに設けた。園のラベンダーが見頃になるこの時期、岩崎さんは必ず足を運び、花が好きだったという和枝さんに思いをはせる。

 事故発生から約半年後、全身やけどを負った和枝さんへの皮膚提供者を募っていることを新聞で知った。「アレルギー体質なので無理かもしれない。でも、罪もなく苦しむ母親のために何か役に立ちたい」。当時中学生の娘とも相談し、二人三脚で営む理髪店を夫に任せ、事前の血液検査に出向いた。

 今でもはっきり思い出すのは、検査が行われた昭和大学藤が丘病院で一人一人に頭を下げていた勇さんの姿。「娘への愛情と、来てくれた人への感謝の思いがあふれていた」 適合性が高いと告げられ、病院で左ももの皮膚5センチ四方を切り取った。その後、化膿(かのう)しかけていると診断され薬を処方されたが、和枝さんの苦しみを分かち合えた安堵(あんど)感の方が強かった。最終的には千人を超える人から皮膚提供の申し出があり、80人以上が皮膚を提供したとされる。

 和枝さんは一時回復に向かうものの、事故から4年4カ月後に息を引き取る。しばらくして焼香に訪れた岩崎さんは、勇さんから母子像建立の計画を聞く。賛同者の一人として名を連ね、港の見える丘公園への設置に尽力した。

 勇さんとの会話で知ったこともあった。和枝さん自身の毛穴と移植皮膚の毛穴がずれて、皮膚呼吸がうまくいかず、暑がったという。「つらかったに違いない。一度会って、励ましたかった」 勇さんが亡くなった後、和枝さんの2歳上の兄隆さん(68)が園主を引き継いだ。「父から聞けなかった話や思いを岩崎さんから知ることもある」と隆さん。資料館開設を夢見た勇さんは岩崎さんに設計図を見せ、熱心に語っていたという。

 岩崎さんは傘寿を迎え、語り継ぐ思いを強くしている。昨年は関心を持った高校生を、今年も年下の友人を伴ってハーブガーデンを訪れた。「忘れてはいけない出来事。風化を防ぐためにも、広く伝えていきたい」と訴える。

 ◆横浜・米軍機墜落事故 1977年9月27日午後1時20分ごろ、在日米海軍厚木基地を離陸したファントム偵察機がエンジン火災で横浜市緑区(現青葉区)の住宅地に墜落炎上し、市民9人が死傷した。土志田和枝さんの長男裕一郎ちゃん=当時(3)=と次男康弘ちゃん=同(1)=が死亡。重傷の母和枝さんもその後、31歳で亡くなった。偵察機の乗員2人は機外に脱出して無事だった。

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