【スリット・シャー、プレス・板金の大槻商店、設立50周年】「切る」、「抜く」、「曲げる」、鋼板の複合一貫加工確立 〝小さい、細かい〟の小ロット即納を追求

 昭和42年5月の設立からちょうど50年、創業(昭和27年8月)からだと65年を数える大槻商店。そのあゆみを振り返る。(文中、敬称略)

 創業者の大槻護(まもる)は、宮城県白石市の農家の三男として出生。昭和22年に上京し、鉄スクラップ回収業の和田商店に5年間勤務したのち、足立新田の地で鉄スクラップ回収業の「大槻護商店」を創業する。

 和田商店に入ったのは、生家の近所にたまたま和田商店の親戚が住んでおり、その親戚を通じて「東京で仕事するならうちに来ないか」と誘われたのが縁だったらしい。

伸鉄メーカーに転身

 朝鮮動乱特需で鉄スクラップが飛ぶように売れ、幸先のいいスタートを切った。

 高度成長期の昭和34年には伸鉄メーカーに転身する。東京オリンピック開催も決まり、建設ラッシュで伸鉄丸棒の需要が増えるとの目論みがあった。

 埼玉の鳩ケ谷で「大和(だいわ)伸鉄」を設立。大槻の「大」と独立前に勤務していた和田商店の「和」をとったのが社名の由来だ。

 しかし、儲かったのは最初だけ。大手ゼネコンや商社との結び付きもなかったため「材料高の販売安」に苦慮し、五輪需要も頭打ちとなり経営難に陥る。昭和37年には芝川伸鉄との合併を余儀なくされ、同じ年の9月に倒産。鳩ケ谷の土地・建物は没収され、王子の自宅だけが残った。

シャー業で〝再起!〟

 途方に暮れていると、かつての取引先から「鋼板を寸法切りして切板販売したらどうか」と助言を受ける。昭和38年、自宅の庭に小屋を建て、4尺のシャーリング1台を購入したのが鋼板加工業の始まりだ。

 いざなぎ景気の波にも乗り、昭和42年には自宅を改装。1階をクレーン付きの工場とし、2階を社員寮、3階を住まいとした。街の鉄屋も、手作業ではなくクレーンがなければ商売できない時代になっていた。社員も10人を数え、この年の5月に株式会社に改組し「大槻商店」を設立。ここから起算して今年がちょうど50年となる。

 シャー業として再起した大槻商店は、旺盛な建設内需に恵まれ、設備も増強するが、工場周辺の宅地化が徐々に進んでいく。

 「騒音や振動問題でいずれ操業が難しくなる」との懸念から昭和48年、川口の東領家に新たなシャー工場を建設。その後も業容を拡げていった矢先、オイルショックが起こる。注文が激減し、社員のリストラも断行した。

スリット加工を開始

 逆風はこれにとどまらず、昭和50年代に入ると切板の需要構造が、コイルを母材としたスリットフープに置き換わっていった。

 このころ取引先の1社だったコイルセンターの菱和鋼業で修業していた大槻功は、スリットフープ化の流れを察知。中古の小割スリッターを購入し、王子工場に設置した。

 フープ製品の最初の客先が、のちに事業吸収するプレス業のマツトモだったのは運命的な話。今から33年前に、まだ〝よちよち歩き〟だった大槻のフープを集中購買したのが取引開始の発端だった。

 それでもマツトモ1社ではとても「食える状態」ではなく、シャーの仕事も下火。「うちのスリット製品は、安く母材を仕入れて値段を〝売り〟にするか、それとも技術を磨いて他社では切れない難しい加工で勝負するか」を思案し、近所で特殊鋼の加工を手掛ける佐久間スリットで技術をイチから学び直す。

 大槻は今でも「難削材の特殊工具鋼を綺麗に切れたときの喜びが忘れられない」。そして「今日、うちのスリット事業が存在するのは佐久間さんのおかげ」と言ってはばからない。時代はバブル景気とその崩壊を迎え、この間に社長も2代目・功に交代している。

 仕事量は減っても高度な加工技能ときめ細かな即納対応力が認知され、同業他社が廃業しても大槻商店は持ちこたえることができた。不況の折も半導体部材や厚物フープ加工などよそでは切れない注文がどんどん舞い込んだ。

リーマンショック、得意先の廃業…

 中国など新興国経済の台頭で再び好景気を迎え、仕事量は一気に倍増。夜9時、10時まで残業する日々が続くが、リーマンショック後の世界同時不況で仕事量は激減。3期連続で赤字を強いられる。

 「もう仕事を辞めるか、給料は減るけど辛抱して残ってもらうか」を議論し、社員は苦労を共にすることで合意。雇用調整助成金を申請し、一時帰休が1年近く続いた。「あのときが一番つらかった」と大槻は振り返る。

 世界同時不況の爪痕も徐々に癒え、仕事量も回復しつつあった平成22年1月。「マツトモ廃業」の報に衝撃が走る。大槻商店の最大の得意先だったが、トップの死去と後継者不在を理由に親族会議で決断された。

 一部の関係者は事業存続に向けM&AやMBOを模索するが、リーマンショック後だっただけに手をあげる引受先は1社もなかった。そこで白羽の矢が立ったのが大槻商店である。マツトモ継承の相談話は、大槻にとって晴天の霹靂であった。

プレス・板金事業継承

 従業員7人の会社が、一気に30人を超える。なによりプレス加工などやったこともない。それでもマツトモ関係者の切実な説得に何度も悩み抜いた末、人・商権・設備を譲り受け、プレス事業に進出することを決断した。

 その3年後には板金加工業だった三機製作所の事業も継承。シャー・スリットからプレス・板金まで「切る、抜く、曲げる」を一貫する複合体制を整え、存在感を高めている。

 この大槻オリジナルの「強み」を、拡販の武器として営業面でもPR。今後は旋盤など機械加工分野も視野に入れ「小さい」「細かい」「小ロット」「即納」に〝磨き〟をかけていく。社員数は総勢36人。品質&環境ISO認証も取得し、管理体制も確立している。

 大槻商店と旧マツトモ、旧三機製作所の3社の機能と文化が融合しながら最適なシナジーを発揮するための模索が進められている。さらには「早船パイプ」の営業商権も新たに継承。事業領域拡充へのチャンスを広げる大槻商店の挑戦は続く。(太田 一郎)

大槻功社長に聞く/川下展開で事業領域拡充/「大槻ブランド」づくりへ一丸

――節目を迎えて。

大槻商店・大槻社長

 「今年5月1日に設立50周年を迎えることができました。創業(昭和27年8月)から数えると、65周年に当たります。これもひとえに、これまで支えてくださったお客様、仕入れ先、地域社会そして苦楽を共にしてきた従業員のおかげと感謝しております」

――これまでのあゆみを振り返ると。

 「創業者である父が鉄スクラップ回収業を興し、その後、伸鉄丸棒メーカーを立ち上げ、失敗し、シャーリング業で再生しました。このときの切板事業進出が、今の大槻商店の源流となっています」

 「これをベースに、市場の変化にあわせてスリット加工を手掛け、都内の宅地化によって仕事がしづらくなるのを察知し、操業環境を現在の川口の地に移しました。この間、幾多の景気浮沈を経験し、経営難にも見舞われましたが、なんとか歯を食いしばって難局を乗り切って今日を迎えております」

――そして今はプレス、板金も手掛ける鋼板複合一貫加工業に進化しています。

 「7年前、スリッターの最大顧客だったマツトモさんの廃業話があり、そのプレス事業を継承してくれと頼まれ、悩んだ末にお引き受けしました」

 「それまで7人だった社員が一気に30人以上に増え、川口工場に大小あわせて15台以上のプレスを移設し、イチから勉強したことを覚えています」

――エポックメーキングな出来事でした。

 「その3年後、今度は計理士さんの斡旋で板金業の三機製作所を継承することになり、新たに工場を借りてベンダーやタレットパンチプレス、溶接機を設置。その後、会社のすぐ近くに用地を取得し、今の第二工場が1年前から稼働しています」

 「この間に品質&環境ISO認証を取得し、新たな人材も確保して現在の複合一貫体制を整えました」

――今後の舵取りは。

 「プレス、板金と川下展開したことによって仕事の裾野が広がってきています。そしてシャー・スリットも合わせて『ひとつの商品づくり』を、素材から一貫してできるという〝オリジナルの強み〟を伸ばしていきたい」

 「うちの商品は決して大きくなく『手のひらに乗るような小さなモノ』だけど、そういう細かくて精密なモノづくりにうちの小割スリッターやプレス、折り曲げ機を生かし、お客様の要望に応えながら商売につなげていければと考えています」

――節目を経て新たな第一歩ですね。

 「親父がシャーリングを始めてコツコツ堅実に会社を運営してきた基本スタイルは踏襲しつつ、いまの加工体制や陣容を生かして新たな商品づくりというか価値づくりに取り組みたい。それ、すなわち『大槻ブランド』であり、それに向かって全社が一丸になれればと思っています」

 「そうは言っても、うちも事業拡張のために随分と借金もしました。私も60歳だし、あと10年くらいは仕事に精励しながら借金を返し、早く次の世代にバトンタッチしてこの会社が60年、70年…と永続できればと願っています」

「ボクシングを応援します」

 「大槻商店は女子プロボクサーの柴田直子を応援しています。若手ボクサーの夢も応援しています」とホームページ(http://www.ootsuki-shouten.co.jp)にある。

 かつてシャーリングやスリッター工場だった本社(東京都北区王子3―3―8)の1階は、今はボクシングジムに姿を変えている。

 その第1期生が柴田直子さんだ。勤めていた会社を辞めてジム通いしていた柴田さんに「うちで働かないか」と大槻社長が声を掛けたのがきっかけで大槻商店の社員となり、営業事務の傍らトレーニングに精励する。

 プロ転向後、OPBF女子東洋太平洋ライトフライ級やIBF女子世界ジュニアフライ級の王者にも輝き、今も〝鉄屋女子きっての猛者〟として日々奮闘している。

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