【プルータス 創業100周年】〈佐藤徹社長に聞く〉「いかにお役に立つか」顧客第一主義貫く

――100周年を迎えられ、どのような感慨をお持ちですか。

 「創業以来、『いかにお役に立つか これで良いのか』をモットーに、お客様とともに歩んできました。自分達の力だけで100年続くなど到底無理なことで、仕入れ先、お客様、地域の方々のご理解とご協力のお陰です。これからも『お陰様で』という感謝の気持ちを大事にして、いかによりお役に立てるかを自らに問い続けなければ、と考えています」

プルータス・佐藤徹社長

――プルータスの前身となる合資会社佐藤佳二商店が誕生したのは大正6年です。どんな時代だったのでしょう。

 「明治の中期以降は掛け時計や玩具などにゼンマイがさかんに使われていたそうですが、まだ日本の技術力は低く、外国からの輸入に頼っている状態だったそうです。材料の高炭素鋼帯も輸入に頼っていて、明治末期にようやくゼンマイの国産化が始まりました。創業者の佐藤佳二は万年筆の販売も手掛けていましたが、圧延鋼材の事業の将来性に着目して、佐藤佳二商店を設立しました」

 「現在のプルータス本社がある場所は柳原河岸(やなぎわらがし)の一角で、赤レンガ倉庫付きの店は裏の神田川から船で商品を運び入れることができ、舟運の便のよい場所でした。大型トラックによる輸送などない時代、川や運河は現代の幹線道路のようなものでした」

 「佐藤佳二商店の特徴は、幅広い新素材を輸入販売したことでした。製造鋸用や金切鋸用の磨帯鋼、ピアノ線、ドリルロッドを中心とする精密特殊鋼やゼンマイで、欧州各国から輸入し、日本各地の工場に卸しました。日本ではまだ新しかった素材を海外から直接取引で仕入れる。やがては国内メーカーを育てて国産化を進め、自らは流通業に徹する。そしてそれが顧客や社会の役に立つ。のちに至る佐藤佳二商店の事業はそうした使命感に裏打ちされたものでした」

――創業7年目に関東大震災に見舞われます。

 「佐藤佳二商店も金庫だけ焼け残り、赤レンガ倉庫は半壊しました。幸いなことに従業員は全員無事で、倉庫には灰をかぶった鋼材が残っていましたが、一部の商品は無事でした。しばらくすると、鋼材を求める人が次々と来られるようになり、佳二は『わずかな値上げをするよりも、ここで一番しっかりしたお客様を握ることが、何よりも大事』と考えて、できるだけ多くのお客様に鋼材を分けたそうです」

――昭和に入ると、外国商館を通さない直接輸入に乗り出しました。

 「昭和2年に群馬県前橋市出身の渋川甚太郎が入社しました。後に佳二の長女・幸子と結婚して娘婿・佐藤甚太郎となり、佳二の右腕として会社の創生期を支えた人です。甚太郎は英語に不慣れだったにも関わらず、タイプライターを叩き、海外に単身勇躍して、輸出入を軌道に乗せていきました。外国商館を通じた仕入れでは高いマージンを支払わざるを得ませんでしたから、直接輸入は当時の日本の国策である外貨節約や緊縮財政にも沿ったものでした。ドリルロッドに着目し、主力商品の一つにしていったのも、この頃のことです」

――工場を持ち、経営を広げた時期でもあります。

 「昭和2年には倒壊した赤レンガ倉庫の跡地に新社屋を完成しました。大震災でも倒壊しない建物をということで当時珍しい鉄筋コンクリート造りにして、後の東京大空襲でも焼け残りました。昭和5年には、群馬県高崎市に焼入鋼帯(ゼンマイ)のための熱処理工場を開設し、その後、昭和10年に工場を東京に移転し、佐藤佳二商店足立工場としました。この工場跡地は後に秋山精鋼さんに譲渡しています。昭和10年は東京伸鉄所(現日本金属)と特約店契約を結び、同社の磨特殊鋼帯の販売を一手に手掛けるなど飛躍の年でもありました」

 「当時、佐藤佳二商店は貿易部を置き、輸出入ともに積極的でした。輸出については『日本は原料が乏しいので、外国から原料を買って加工した商品を輸出して、商業報国をしたい』という考えでした。また当時、優秀な国内工場を支援して国産品を拡大していこうと考えていました。象徴的なのがドリルロッドで、当時は佐藤佳二商店の輸入品が圧倒的でしたが、昭和11年に秋山実商店(現秋山精鋼)と提携して国産品の製造に着手しました。名称はASKドリルロッド。ASKは今でも秋山精鋼さんのブランドとして幅広く使われています」

精密特殊鋼製品、あらゆる形状扱う

――2代目の佐藤英夫社長が就任したのは昭和13年。29歳の若さだったそうですね。

 「昭和14年に英鋼材、15年に三田鉄工所、花畑鋼業所を設立するなど積極的に事業を広げました。順調に見えた佐藤佳二商店を衝撃が襲ったのは昭和16年です。佐藤英夫に召集令状が届きました。英夫が復員したのは昭和21年夏のことでした。英夫の出征中、後を託していた幹部社員らが会社を共産化し、経営は混乱していました。英夫は熟慮の末、昭和24年に社長辞任という一世一代の決断をして、取引先に挨拶状を送りました。それで業界関係者が実情を知るところとなり、昭和25年に英夫は無事、社長に復帰することになりました」

――戦後復興と軌を一にして、佐藤佳二商店の建て直しと新たな発展が始まりました。

 「あちこちにある不動産を手放した一方で、昭和24年に関東ゼンマイ、昭和27年に岸製作所、昭和28年に三興線材工業と代理店契約を結び、昭和31年には貿易部を復活し、戦中から途絶えていた輸出入業務を再開しました。また昭和31年に日立金属、昭和35年に日本精線と特約店契約を結びました。戦後復興を経て高度経済成長の波に乗り、確実に成長を遂げることができました」

 「特殊鋼業界における佐藤佳二商店の特徴は、様々なメーカーと特約店契約を結び、帯、棒、線など精密特殊鋼分野のあらゆる形態、形状の製品を扱っていることでした。昭和39年の東京オリンピック後に特殊鋼・ステンレス業界で大型倒産が起きましたが、佐藤佳二商店のダメージが少なかった理由の一つに、幅広い製品を取り扱っていたことが挙げられると思います」

――昭和42年には創業50周年を迎えました。

 「大正6年の日本の特殊鋼生産は7千トン程度でしたが、昭和42年は420万トンで実に600倍に拡大し、特殊鋼帯の技術、品質は輸入品に負けない水準に向上していました。50周年の英夫の挨拶文で、『この成長の原動力は、何といっても需要家筋の国産品に対する理解と協力によることと、メーカー側の品質向上に対する努力であると思います。私共の企業は、この需要者と生産者の品質の一致点を結ぶためのもので、需要者の理解と協力、メーカーの品質向上への努力がなければ、企業は成り立たないことになります。幸いにして50年間の企業が順調に伸展して参りましたことは、この両者の一致点が多かったことの証左であり、喜びに堪えない次第であります』と述べています」

地域密着で拠点展開、東南アなど海外進出も

――昭和45年には社名をプルータスに変更しました。

 「『企業は古く経営は新しく』が佐藤佳二商店のモットーでしたが、『社名はいかにも個人商店のイメージが強くて、求人にもマイナスだ』という意見があり、一方で『伝統ある名前を消すのは惜しい』という意見もありました。親しまれていた呼び名の『サトーケイ』にしてはどうかなど、いくつも候補を挙げて議論を重ねましたが、最後まで残ったのは、佳二が創業時に商標に決めた『プルータス』でした」

 「プルータスは、ギリシャ神話に登場する、大地に収穫や富をもたらす神です。左右を月桂樹に囲まれた、前髪だけを生やした人物の顔というトレードマークは、佳二が思いついた絵を、専務を務めた阿久沢誠がデザインしたもので、昭和初期に使い始めました。チャンスの神であるカイロスと混同していた節もあるのですが、プルータスは富を司る神だから良かろうと。当初は『一体何屋だよ』と言われましたね」

――昭和45年3月に東京都品川区西五反田に城南センターを開設しました。その後の営業・物流拠点展開の先駆けですね。

 「神田岩本町の倉庫が手狭になり、佐藤甚太郎が独立して興していた佐藤甚太郎商店の倉庫を引き受けて開設しました。当時の細井栄四郎常務は『道路事情、交通の混雑を考えると、今後、配送センターのような拠点が数カ所必要になるかもしれない』と見通していました。それまでお客様が買いに来てくださいましたが、そういう時代ではなくなる。お客様のそばに倉庫を置き、在庫も情報も持って仕事をする形にしていく必要がある、ということを皆で協議するようになっていました。私が経営にタッチするようになったもこの頃からです」

 「取引先のリコーさんが東北リコーを設立し、宮城県柴田町の東北リコー内に当社の倉庫を設立したのが大きなきっかけになりました。昭和45年2月のことです。材料の安定供給のための要請を受けたことに加え、東北地区で地域密着により商権を拡大させる目的もありました。東北のこの拠点は、昭和51年の仙台営業所開設につながっています。昭和48年に群馬県前橋市に前橋支店を開設し、主要なお客様のそばに拠点を置くと同時に、北関東地区への拡販に乗り出しました」

――佐藤社長が3代目に就任されたのは昭和53年で創業60周年の節目の年ですね。

 「就任して間もない頃、『これで良いのかプルータス』という言葉で社員に奮起を促しました。お客様やメーカーの役に立てているか、『良いものを、安く、早く』提供できているか、世の中の変化に素早く対応できているか。メーカーとユーザーの両方を大切にしなければ、材料商社の付加価値は成立しません。付加価値のひとつはお客様の利便性を高めることです。地域に密着した拠点作りは、顧客第一であると同時に、配送費用の節減、きめ細かな営業活動にもつながりました」

 「昭和56年に東京都大田区平和島に平和島営業所を開設し、城南センターを併合しました。この年には杉田製線工場(現杉田製線)と特約店契約を結び、硬鋼線、オイルテンパー線の販売を始めました。昭和57年には日本金属の子会社だった日本鋼帯商事の経営権を譲り受け、準備期間を経て新潟プルータスを設立しました。昭和60年には長野県諏訪市に諏訪営業所を開設し、昭和62年には新社屋を建設し、諏訪プルータスとして独立しました。独立させた背景には、甲信地方の販路拡大だけでなく、社内でマネジメント能力のある人材を育てるという目的もありました」

――平成3年にはプルータススポーツを設立しました。

 「国際部のスポーツ用品課を独立させたもので、突然、スポーツ用品を扱い始めた訳ではありません。以前からスキーやスケート靴用のエッジに、輸入した特殊鋼を加工した製品を扱っていました。その後はスケート靴も扱うようになり、お客様の要望を受けて『お役に立てるのなら』とアイスホッケー用具全般の輸入販売も始め、ヘルメットやユニホームも扱うようになりました。アイスホッケー、ラクロス、ローラーホッケーなどが日本で広がるのを後押しした発信基地でもありました」

 「明治神宮外苑のアイススケート場のプロショップでは、長年コーチングも併せて行っていましたが、昨年3月に撤退しました。アイスホッケー業界に対してこれからもどうお役に立てるかを考えると、難しいと考えざるを得なかった。今はラクロス専門店として運営しています」

――平成5年の北関東支店開設に続き、平成7年にはタイに現地法人を設立しました。

 「流通業はあくまでも顧客第一主義であり、お客様やメーカーのニーズが変われば、企業も人も進化しなければ生き残れません。取引先の生産拠点が海外に移るのであれば、密着型の流通業である当社が対応するのは必然でした。東南アジアへのネットワークとしての拠点作り、営業体制の国際化、東南アジアの商品、部品の日本への輸出が主な目的でした。タイプルータスは平成9年のアジア通貨危機の最中に操業を開始し、売上ゼロからのスタートでしたが、お客様の工場進出にも恵まれ、その後は順調に業績を伸ばしています」

――時代は飛びますが、平成22年に現本社ビルを完成しました。このプルータスビルの1階エントランスホールの一角にはアートスペースを設置し、長岡造形大学名誉教授でもある熊井恭子氏の作品を常設展示しています。

 「熊井さんは細い金属を素材に金属の布を編み出す作品などで知られるアーティストで、ステンレススティールフィラメントの魔術師とも称される方です。髪の毛ほどの細い金属を熊井さんに提供していたご縁で、平成3年にニューヨークの近代美術館で開かれた熊井さんの個展を協賛したのが始まりです。ビルの前を行き交う人達にハガネとアートのコラボレーションを楽しんで頂ければと思っています」

――最後に現在のグループの規模感をお聞かせください。

 「グループには食品包装機械を設計・製作する明東工業、韓国向けに石油化学製品を輸出する部門もあり、グループ全体では120人近い陣容です」

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