先日ユヴェントスに加入したフェデリコ・ベルナルデスキは、「10番」を拒否して33番を選択した。
彼は「10番は間違いなく好きだが、それに値するものを見せなければならない」と話し、意図的に避けたことを明かしている。
ユヴェントスの「10番」は、ベルナルデスキが畏れ多いと感じるほどのもの。その数字の歴史を彩ってきた名選手たちを『Football Italia』がまとめている。
オマール・シボリ
ユヴェントス所属:1957〜1965
スターティングメンバーに1〜11が割り当てられる時代、シボリはユヴェントスで10番をつけてプレーした最初の偉人であろう。
リーベル・プレートからやってきたアルゼンチン人FWは、ジョン・チャールズやジャンピエトロ・ボニペルティと素晴らしいコンビネーションを作り、1961年のバロンドールに輝いた。
シボリはユヴェントスで8シーズンを過ごし、3回のスクデットに貢献。259試合で174ゴールを決めた。2005年没。
リアム・ブレイディ
ユヴェントス所属:1980〜1982
アーセナルからやってきたブレイディは、ユヴェントスにわずか2シーズンしかいなかったものの、巨大なインパクトをトリノに残した。
このアイルランド人は2年連続のスクデットをもたらした。しかしユヴェントスは1982年にミシェル・プラティニの獲得を決めていた。
そのためブレイディは外国人枠の問題で放出されることになってしまい、シーズン終盤にはすでにその結論が本人に伝えられていた。
しかしその中で彼はカタンツァーロとの最終戦でゴールを決め、その別れを最高なものにした。
ミシェル・プラティニ
ユヴェントス所属:1982〜1987
ブレイディの放出はユヴェンティーノの中で議論が分かれることになった。しかし、プラティニはそのモヤモヤをすぐに忘れさせた。
最初のシーズンで48試合28ゴールと鮮烈な結果を残す。3年連続でセリエA得点王、バロンドールを獲得し、1985年にはチャンピオンズカップ優勝に導いた。
プラティニはユヴェントスの歴史上でも常に最高クラスの選手だったと評価されている。
ロベルト・バッジョ
ユヴェントス所属:1990〜1995
「神のポニーテール」ロベルト・バッジョは、ベルナルデスキと同じようにフィオレンティーナからやってきた。移籍金は当時最高額の800万ポンド。
取引が行われたあと、フィレンツェでは暴動まで発生した。しかしバッジョはフィオレンティーナへの愛を忘れず、ペナルティキックを拒否するなどのエピソードも。
ユヴェントスで5シーズンを過ごした彼はスクデット、コッパ・イタリア、そしてUEFAカップをもたらし、世界で最も偉大な選手の1人として評価された。
200試合で115ゴールを記録した彼は魅力的であったが、1995年にはライバルのミランへ移籍し、あの「後輩」に道を譲ることになった。
アレッサンドロ・デル・ピエロ
ユヴェントス所属:1993〜2012
1993年にパドヴァからユヴェントスにやってきたデル・ピエロは、最初の2シーズンは10番を付けてはいなかった。
ロベルト・バッジョの後に10番を彼に渡すことはユヴェントスにとって賭けであっただろうが、それは成功に終わった。
2012年に退団するまで290得点を記録し、非常に多くの試合でプレーした。主なタイトルはスクデット6回、コッパ・イタリア1回、チャンピオンズリーグ1回。
さらに、カルチョ・スキャンダルでセリエBへの降格処分を受けた後も残留を決断し、しかも得点王となって昇格に貢献。ファンの心を完全に掴んだ。
彼よりも優れた選手はいただろうが、彼よりも偉大な「ユヴェントスの10番」はいないはずだ。