【共英製鋼、目指せ100年企業】〈創業70年の軌跡と展望〉(2)総論(下)挑戦と苦闘、4度の危機越える 「創業者精神」で業容拡大

 共英製鋼は、1947年(昭22)8月に高島秀次氏が共同出資で大阪府城東区古市に設立した伸鉄メーカー「共栄製鉄」が創業会社。東大阪周辺の線材二次加工業者向けに伸鉄線材を販売した。

 48年には高島家全額出資の「共英製鋼」としたが、53年に秀次氏が60歳で急逝。長男の高島浩一氏(2000年3月、77歳で死去)が若くして社長に就いた。56年に棒鋼生産を開始。62年に大阪市西淀川区佃に電炉工場(大阪工場=2016年3月閉鎖)を新設。製鋼工程を持つ電炉メーカーとなった。

「世界一の電炉目指す」

 「世界一の電炉メーカーになろう」。浩一氏は社員にこう呼び掛け、海外飛躍の夢を追いかけた。63年には国内鉄鋼メーカー初の海外進出として、台湾合弁で民豊泰鋼業を設立。70年にはタイ合弁のチョンビリア・スチールを設立。73年には日本鉄鋼業初の米国進出となったオーバンスチール(ニューヨーク州)を安宅産業と設立した。

 国内では、67年に古市工場で異形棒鋼を生産開始し、線材から撤退。佃工場の製鋼と、古市、放出(はなてん)、今津の圧延工場による一貫体制を構築。71年には「社運をかけて」大阪・枚方市に枚方工場(現枚方事業所、60トン電気炉と連続鋳造機)を稼働させ、翌年に10ミリ径丸棒・月産2万トンの圧延ミルを新設し、一工場での製鋼圧延一貫体制を確立した。

「地方ミニミル構想」

 73~74年は、浩一氏の「地方ミニミル構想」に基づき山口共英工業(現山口事業所)、熊本共英工業(現大阪製鉄西日本熊本工場)を稼働させ、「攻めの経営」を展開していった。

 しかし、こうした強硬策が裏目に出る。第一次石油ショック直後、鋼材需要が一気に冷え込み、75年8月には小棒業界53社が公正取引委員会に「不況カルテル」を申請するほどの危機的状態に陥ったのだ。76年には山口共英や米オーバンの合弁相手だった安宅産業が倒産。共英一社でオーバンを支える余裕はなかった。

 浩一氏は海外事業投資を中止。「全社非常事態宣言」を出して防衛に専念した。希望退職者募集、銀行や商社への融資要請。黒字だった米オーバンや、熊本共英の売却で危機を凌いだ。

 82年には住友金属工業(現新日鉄住金)との資本提携により経営基盤固めを図った。「第三の創業期」(高島成光相談役)である。

 84年に第一製鋼(現名古屋事業所)を買収。88年には住金・和歌山製鉄所内に和歌山共英を設立してH形鋼生産を開始。

 92年米・フロリダスチール買収(アメリスチール)。94年にはベトナムでビナ・キョウエイ・スチール(VKS社)設立、相場製鋼・新治工場買収(現関東スチール)など、攻めの経営を展開した。

 その最中、85年のプラザ合意による円高により、鉄鋼業全体の経営が悪化。共英も「三度目の経営危機」を迎えた。しかし86年に浩一氏が会長、弟の成光氏(現相談役名誉会長)が社長に就任し、二人三脚で「第三の創業」を推進した。

共英最大の危機

 「第三の創業」は着々と進行したが、96年を境に日本経済は銀行破たんなど金融不況に突入。経営環境は再び厳しくなった。99年には黒字経営のアメリスチールの売却を決定。さらに2000年3月に浩一会長が死去。成光氏が会長に就いたが、当時の負債額は1千億円を超えていた。共英は最大の経営危機に直面する。成光会長と高島秀一郎社長は、住金の出資拡大や、銀行、商社への融資要請に飛び回り、ようやく危機を乗り切った。

 「最大の危機だったが、逆に言えば第四の創業期でもあった」と成光氏は振り返る。今度は浩一氏の長男、秀一郎社長との二人三脚で経営再建と新生・共英のため走り回った。

 「関西電炉の構造改善は必須」との浩一氏の遺言もあって、厳しい経営状態ながら会社更生法適用を申請した中山鋼業への合同製鉄との共同支援も行った。

 そして06年に念願の東証・大証一部に上場を果たす。12年にはベトナム2拠点目のキョウエイ・スチール・ベトナム(KSVC社)を買収設立。88年から山口事業所で始動した産廃処理など環境リサイクル事業も経営の三本目の柱に成長した。

 15年にはベトナムVKS社で製鋼圧延一貫工場が完成、16年末には米・テキサス州でビントン・スチールを買収設立。今年8月にはベトナムKSVC社で中断していた電炉製鋼圧延工場の建設計画再開を決め、「国内を一層強化しながら、海外展開で成長戦略を描いていく」(森光廣社長)と、グローバル展開を拡充している。

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