「自分の人生が変わる」―東北大からプロ希望、工学部生が待つ運命のドラフト

東北大学・鳩原翔【写真:高橋昌江】

東北大からプロ志望届、鳩原翔が内に秘める思いとは

 26日に行われるプロ野球ドラフト会議。今年も多くの野球人にとって運命の日となる。大学生は、その多くが私立大からプロ志望を表明しているが、今年も国公立大から可能性にかける選手たちがいる。その筆頭は東大・宮台康平投手だが、宮城・仙台からもNPB入りを目指す選手がいる。東北大・鳩原翔。185センチ、81キロの恵まれた体格で走攻守の三拍子がそろった左投左打の外野手だ。一浪で東北大に入り、仙台六大学では1年秋に優秀新人賞、2年秋に最多盗塁賞(11盗塁)、そして3度のベストナイン。鳩原はどんな野球人生を歩み、プロ志望届提出に至ったのか。そして、今日、どんな運命を迎えるのか。

――10月9日で仙台六大学の秋季リーグ戦が終了。最終戦後、プロ志望届を提出しました。

「はい。出す決定を下したのは急でした。その日に(鈴木得央)監督や(長谷川史彦)部長と話し合って、書きました。それまで監督とは話し合いを重ねてきていましたが」

――その日、出す覚悟はしていたのですか。
「半々くらいでした」

――決め手は?

「う~ん、OBの方など周りからの声というのは大きいんですけど、4年間を振り返ってみて、挑戦してみてもいいのではないかという気はありました」

――プロを意識したのはどの時期からですか。

「2年のシーズンです。高校時代から実績はなく、実力もなかった。大学に入って、何度か個人賞を受賞させていただき、特に2年秋で自信がついたかなと思います。いい意味で何も考えていなかった。3、4年生はここで打たなきゃとかプレッシャーがあったりして、余計なことを考えて打てなかった印象がありますが、大学1、2年生の頃は無心で打てたのがいい結果につながったのかなと思います」

――プロ志望届を出そうと思ったのは?

「4年生になってからですね。最初は(OBなど)周りからの声というのもあったのですが、監督と話し合っていく中で、私がプロ志望届を出すことによって、東北大硬式野球部や国立大、旧帝国大が注目されればいいなと思いました。その中で頑張っている選手がいるんだということを知っていただいて、注目してもらえれば、いい選手が入ってきて、今後の活性化になればいいなと思って出しました」

――なるほど。今年は東大・宮台が注目され、ロッテを戦力外になったが、田中英祐投手が京大からプロ入りしました。

「毎年、夏に旧帝国大の大会(全国七大学総合体育大会)があるのですが、どのチームも強くて、東大もすごくいいチーム。周りからは私立に比べて弱いと言われがちですが、頑張っている選手もいるので注目されているのは嬉しいです。すごくいいライバル関係だと私自身は思っています」

――対戦は?

「東大と試合はしたのですが、(宮台は)投げてこなかったので対戦はありません。投げている姿は見ました。1年生の時には田中さんが投げているところを見ているので、すごく刺激になりました。大学に入ったばかりで、まさか、プロに行くような選手がいるとは思っていなかったので、すごくレベルの高い選手がいるんだなという驚きと感動がありました。名古屋大にはトヨタ自動車に進まれた七原(優介)さんがいましたが、そんな選手がいると思っていなかったので驚きました」

大学時代の練習環境は? 貴重な経験となった「自分で考えた練習」

――東北大での4年間、どうでしたか。

「私は仙台二高の出身なのですが、仙台一高と定期戦があるんです(“杜の都の早慶戦”と呼ばれるが、本当の早慶戦よりも起源は古い)。それは二高生、一高生にとっては甲子園よりも大きい大会なんです。3年生の時、ビハインドの場面でチャンスを迎え、私に打席が回ってきました。しかし、中途半端なスイングでサードファウルフライ。それが一番の後悔として残っていて、中途半端で弱気なのが嫌だなという思いがありました。大学はリーグの舞台でもいい結果を残すことができましたし、最終戦も負けてしまったのですが、最後とその前の打席で自分のスイングができたなと思っています。最後から2番目の打席はツーベース。最後の打席はライトフライだったんですけど、自分のスイングができて良かったなと。チームの成績に関しては悔しいんですけど、大学4年間としては後悔はないです」 

――中でも2年秋が自信になった。

「そのシーズンが4年間で最も打率がよく、ヒット数も一番、多い。それがすごく自信になりました。東北大の平日の練習は朝のみ。午後は自主練なので1、2年生の頃、午後からよくグラウンドに行って練習していました。自分で考えた練習ができ、その成果が出たかなと思います」

――週何度くらい、午後から練習できたんですか。

「5日のうち、3日くらいはできました。1、2限、または3限まで講義を受けて、グラウンドに行っていました。3、4年は専門的な勉強が始まり、研究とかが忙しくなり、午後から行ける時間が減りました。それでも、自分の思い通りの練習ができたら、この環境でもいいのかなと思います。私には合っていた。自分で考えてやれる環境なので、何時間もやらされる練習より、自分のためになりますし、練習も楽しかったですね」

――野球を始めたのはいつから、どんなきっかけですか。

「台原小の3年からです。父が野球好きでテレビを観ていて、興味を持ったのがきっかけです。5歳くらいの時から、いろんなものに将来はプロ野球選手になりたいと書いていたので、テレビ中継を見て野球を好きになり、父と遊びでやっていました。姉が小学生の時にドッヂボールをしていて、私も最初はドッヂボールをやろうと思ったのですが、見学に行ったら何か違うなと感じました。そのあと、少年野球の見学に行ったら、これだ、と思って野球チームに入りました。台原中では軟式野球部に所属し、キャプテンをやっていましたが、そんなに目立つ選手ではなかったと思います。体も小さかったですし」

――今は185センチ。

「中学時代は160センチ台でした。高校3年間と浪人の1年間で伸びました。その変化も大きかった気がします」

――仙台二高ではどうでしたか。

「中学の頃から東北大の工学部に入りたいとは思っていました。二高の2つ上に幼い頃からの友達がいて、野球も勉強も頑張っていると聞いており、選びました。勉強と野球の記憶しかないですね。成績は中の上だったと思います。野球はやらされているという感じでした。最後の夏は2回戦で泉館山に逆転サヨナラ負け。そこで区切りというか、もういいかなという感じはしていました」 

――受験は?
「東北大1本でした。案の定、ダメで、もう1年、勉強しようと思いました」

1年の浪人、楽天の日本一を経て高まった野球への情熱

――1年間、浪人。

「河合塾で浪人したんですけど、その1年が大きかった気がしています。遊び程度ですが、素振りをしたり、たまにバッティングセンターに行ったりしていました。また、二高や一高の野球部だった人たちと公園でキャッチボールも気晴らし程度にやっていました。動画も撮ったりしているんですよね、素振りの(笑)。髪がボサボサで本当に浪人生という感じで(笑)。高校時代は指導者から言われる練習でしたが、こうしたらいいんじゃないかと自分で考えたことを試すことができました。動画を見て、プロの選手と比較したりして、これは違うなとか、こうかなとか、自分なりに練習できたのは大きかった。これまでは詰め込まれることをこなすだけで自分のプレーと向き合うことがなかったので」

――なるほど。

「もう1つ、大きな要因は楽天イーグルスが日本一になったことです。浪人で野球からは離れていたんですけど、ニュースなどでずっと見ていて、野球をやるモチベーションになりました。優勝を決めた試合はテレビにかじりついて見ていて、優勝した瞬間はウルッときましたね」

――楽天の優勝は鳩原選手にとっても大きな出来事だったのですね。1年間、浪人し、東北大に合格しました。

「野球と一緒で、1年間、しっかりと勉強でも自分と向き合うことができた。自信がついていました。高校の時はダメだと思っていましたし、野球においても自信がなかった。自信を持てる経験がなかったので、すごく大きな1年でした」

――いい時間だったのですね。勉強では何が伸びたのですか。

「高校では部活を引退してからの時間が限られていました。焦りの中で何をしていいのか、計画ができませんでした。目の前の参考書を適当にとって、問題を解いてみたりという感じでした。それが、浪人中はしっかり計画を立てて、その通りにやることができた。基礎からしっかり、上を見ないで着実に積み上げていけたのが自信につながったのかなという気がします。計画を立てられる人はいいのですが、私はただ焦ってしまったので」

――迷わず、野球部へ?

「そうですね。仙台六大学の存在もあまり分からなかったのですが……。リーグ戦のスタメン発表で、他校の選手の出身校を見るとすごいなと思っていました。レベルの高いところでやれるのかなと思うとすごくワクワクしました」

――対戦して、いいなと感じた投手は?

「やっぱり、仙台大の馬場(皐輔)。打てないですね。ストレートが好きで得意なんですけど、それでも、打てたイメージがないんですよね。他のピッチャーは打てたんですけど、馬場は……。あの体(180センチ、90キロ)のままボールがグワーッと来るというか(笑)。スラッとしたピッチャーのピューッていう球は好きなんですけど、馬場のストレートは苦手でした」

――打者では?

「1年生の時は、東北学院大にいた三瓶(将大)さんがかっこいいなと思っていました。打席に立った時の雰囲気、オーラがあって、私もああいう風になりたいなと思いました。あとは仙台大にいた松本桃太郎さん(現Honda鈴鹿)や東北福祉大の楠本(泰史)ですね」

東日本大震災の影響でインフラに興味、東北大工学部に進学

――そういう選手たちと切磋琢磨できた。

「こういうレベルで野球がやれると思っていなかった。個人賞とかも獲らせていただけるとは思っていなかったので、自信につながっていると思います」

――話は変わりますが、工学部建築・社会環境工学科で学んでいますね。

「建築系と土木系に分かれており、私は土木系です。さらにコースがあり、橋の設計をしたりするコースや地下鉄など都市計画をしたりするコースがあるのですが、私は水環境デザインコースで学んでいます。環境問題などを取り扱っており、私は下水処理の研究をしています。浄化センターで水をもらってきて水質を調べたり、その水、人の汚泥、糞便ですね、それをもらってきて発電をしたりしています。バイオガス発電、というものです。結構、汚い研究なんですけど」

――人類には必要ですよね。

「はい。途上国とかで必要になってきます」

――どうしてその道を?

「高校生の頃から土木系には行きたかったです。高校1年から2年になる時に東日本大震災があり、インフラに興味を持ちました。電気やガスなどはかけがえのないものなので、やりがいのある仕事だなと思ったんです。日常の有り難みを感じ、その日常を支える仕事をしたいなと。地味かもしれませんが、一番、大事だと感じたので、そういう仕事をしたいなと思いました」

――卒論は?

「『浮き草による排水処理』がテーマです。水に浮いている草があると思いますが、あれで水をきれいにしようという研究です。成長する時に水の養分などを使うので、その作用を使うと水がきれいになる。植物の力で水をきれいにするので、途上国とかでも応用することができるかなと」

――話は戻り、プロで、自分のこれだったら勝負できるというところは?

「個人的にはポジショニングも含めて守備だと思っています。そこは自信があります。守備範囲は広いと思っていますし、触ったら落とさないという自信はあります。それが一番のアピールポイントではないかと。小、中、高校と守備範囲は広いと周りから言われ、守備は好きでした。外野の守備が嫌いという人がいますが、私は好きで、ヒット性の当たりは全部、捕ってやろうと思っています。捕れないと悔しい。あとはポジショニング。私も入っている解析班で出したデータを基に自分でも考えて、その通りに打球が来ると嬉しいですね」

――打撃で自信があるところは?

「当てる技術はあるのではないかと思います。バットコントロールですね。ストレートに振り負けないスイングはできると思います。浪人時代や大学に入ってから受けた指導のおかげです。あとは気持ちの問題。高校時代はビクビクして打席に入っていましたが、大学では堂々と打席に立てたと思います」

――いよいよ、ドラフトです。

「どうしようか、という感じです。指名されたら、されなかったら、どうしようかと。本当に、大きく自分の人生が変わると思うので、そういう局面が来るなという感じはしています」

(藤浦一都 / Kazuto Fujiura)

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