制作風景が短い動画にまとめられ、上映されていた。あおむけになって絵筆を握る青年。車いすに座り、指や手の甲を使ってキャンバスを色で埋めていく若者。打楽器をたたくように手で絵の具を塗っていく少女は、とても楽しそうだ。そうしてできた作品が壁いっぱいに飾られていた。
東京・根津で10月に開かれた「成長する絵画展」には、心を揺さぶる何かがあった。その何かを言葉によって伝えたいのだが、うまくいくかどうか。
▽逆転する世界
この絵画展は毎年開催され、今年で7回目になる。描き手は脳性まひの若者4人。彼らの制作に寄り添うのは、浅羽聡美さんだ。東京・豊洲のシンフォニア保育園で、子どもたちの自由な表現を大切にするアート活動を展開していることは、本サイトの「子どものいま未来」(6)「保育園の表現者たち」で紹介した。
成長する絵画展に寄せた浅羽さんの言葉を借りる。
「彼ら(絵画展の4人)は私たちとは体の動かし方が違っていて、それが肢体不自由とか障がいと言われるゆえんです。この言葉の前提には、私たちは自由で、彼らは自由ではないという捉え方があると思います。しかし『表現』を真ん中に置いて向き合ってみると、道具や環境さえ彼らに合わせられれば、障がいは障がいではなく、彼らは本当に自由な表現者になることができると分かります」
その視点でわれわれ自身、いわゆる「健常者」を見たとき世界は逆転する。「自分自身を表現するということにおいて、実は健常といわれる私たちこそが不自由なのではないか」。浅羽さんはそう実感しているという。
説明が必要かもしれない。何を、何のために、なぜそのように描いたのか。対象や意図や手法までが明確に伝わる表現を、私たちの社会は要求する。そして表現者の側も「ここが魅力的だ」「面白い狙いだね」などと評価されたい。
そんな思惑がない場合でも、思いや感情がまずあって、描くことはそれを表現するための従属的な行為であることがほとんどだろう。
▽音楽を聴くように
4人の若者の絵はそうではない。キャンバスに絵の具を塗りつける行為はジャズのようですらある。描くという行為そのものが、喜びであり、怒りであり、悲しみであり、生きることそのものなのだ。
同伴者として浅羽さんがやってきたのは、どうしたら彼らが自分を表現しやすくできるのかということだった。描くための材料、キャンバスの大きさ、彼らの体勢…。
何を描いているのか分からない。彼らの絵をそう拒絶するのはたやすい。しかしその拒絶は、私たち自身の大切な部分を切り捨ててしまうことにつながりかねない。
浅羽さんに絵の見方を教えてもらった。
「今日は音楽を聴くように、絵を見てください。たとえ作者の名前も題名も知らなくても、歌詞がなくても、音色やメロディーに身を任せるように、絵の色彩やタッチの動き、画面のリズムに、自分を委ねてみてください」
そのように表現を受け取ることは、自由に描くことと相似形の自由な世界だった。がんじがらめの既成の見方や価値観から解き放たれると、豊かな世界が広がっていた。(共同通信=佐々木央)=絵画展は10月15日まで東京・根津のGalley okarinaBで開催された