【原点】夢追い ゼロからの船出 J1昇格 V長崎の航跡・3

 「あの時、まいた種が、ついに実を結んだ」。J1に上り詰めたV・ファーレン長崎。その原点は島原半島の市民クラブだ。サッカー、そして古里を愛する人たちが荒波にもまれながら夢のバトンをつないできた。

 2004年1月、小嶺忠敏率いる国見が全国高校選手権で6度目の優勝を飾り、県内が興奮に包まれる中、長崎県サッカー界の将来に危機感を募らせる関係者がいた。「(小嶺の)定年退職まであと2年。先生なくして長崎の強化はありえない」

 かつて、「サッカー王国」と呼ばれた長崎。V長崎監督の高木琢也ら日本代表や数多くのJリーガーを輩出しながら、J参入には後れを取っていた。ここで、小嶺の島原商高時代の教え子たちが立ち上がる。国見町で小中学生や高校生に指導していた塩田貞祐、辰田英治、菊田忠典の3人。「地域の活性化と子どもたちに夢を」。ゼロからのスタートだった。

 3月、長崎県リーグの強豪有明SCと、国見高OB主体の国見FCに「Jを目指すチームの母体になってほしい」と頼み込んだ。難色を示す選手もいたが、あらゆる思いをのみ込んで合併。その年の県リーグを制し、05年1月の九州各県リーグ決勝大会で準優勝した。

 九州リーグに昇格したものの、資金はほぼゼロ。遠征費などを含め、運営に年間数千万円が必要だった。3人を主体に理解者が「夢ば買うてください」と行政や企業に働き掛けた。数百社以上回っても、「本気か」と冷たくあしらわれた。

 苦境の中、島原商高時代のサッカー仲間、荒木辰雄が勤務先の親和銀行に掛け合った。「長崎にJを」という動きを気に掛けていた上司が賛同。会場には行員も駆けつけ、ボランティアとして尽力した。資金面での援助も得られ、岩崎食品や玄海酒造など協力者は次第に増えていった。

 昼間は働きながら、夜に練習した。練習場も転々。「家に帰り着くのは午前0時をすぎる選手もいた」。コーチ兼選手だった国見高OBの内田利広は今、母校で指導している。「J1昇格は子どもにとって刺激になる。V長崎に入れる選手を育てたい」。創成期を支えた塩田ら3人は「長崎から巣立ったJ1選手が古里のピッチに立つ姿を早く見たい」と心待ちにしている。(敬称略)

V・ファーレン長崎として初めて九州リーグに挑んだメンバー=2005年4月、宮崎市の宮崎総合運動公園

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