第1部「無縁」(3) 「自分だけがおかしい」父母の病、年金頼みに

藤田真一(仮名)は父に連れられ、海によく釣りに出掛けた=堺市で

 「ひきこもり」という言葉が登場し始めたのは、昭和から平成に替わった1989年ごろ。不登校や無気力な若者の増加が指摘され、国の審議会などで社会問題として初めて取り上げられた。
 藤田真一(ふじた・しんいち)(49)が自宅から出られなくなった84年ごろは、そうした言葉すら知られていなかった。両親はわが子に何が起きたのかと、戸惑うばかり。どこに相談すればよいのか分からず、「病院に行ったらどうや」と勧めるのがやっとだった。
 真一自身も「このままではだめだ」と感じていたが、顔にできた発疹を小学生にからかわれた時の記憶がどうしても消えない。「人に見られたくない」との思いが支配し、心身の不調が何なのか思い詰めた。「自分だけがおかしいんだ」。いら立ちを両親にぶつけた。
 パソコンも携帯電話もまだ家庭に普及していない時代。朝、目が覚めると4畳半の自室でテレビを見たり、大好きな小泉今日子の曲を聴いたりした。髪が伸びればバリカンで丸刈りに。食事は部屋に運んでもらい、時々、夜が更けて人通りがなくなると、気分転換に家の周りをこっそり歩いた。
 真一には20年間に及ぶひきこもり生活の中で、数少ない、幸せな思い出がある。それは父克行(かつゆき)が月に1度、釣りに連れて行ってくれたことだ。
 早朝のまだ暗いうちに東大阪市の自宅を車で出発。2人で岸壁に並んで座り、釣り糸を垂れた。言葉は交わさなくても、人がいない時間帯や場所を選んでくれる親心が身に染みた。
 しかし、そんな静かな日々が大きく変わる。99年3月。真一が31歳の時に働き者だった母栄子(えいこ)が脳梗塞で倒れ、退院後も介護が必要な状態に。まだ介護保険制度は始まっておらず、ヘルパーも頼めない。克行は介護のために仕事を辞め、真一も体を拭いたり、おむつを交換したりした。
 2年後、今度は克行にがんが見つかる。まだ60歳前後で老いとはほど遠いと思っていたのに、急速に衰えてゆく両親の姿。「自分が働いて支えなければ」と焦った。「いっそ逃げ出そう」と自殺を考え、近くのマンションから飛び降りようとしたり、手首を切ったりした。
 その頃の収入は、両親のわずかな年金だけ。貯金もすぐに底を突き、周囲に知られることがないまま、一家は次第に追い詰められていく。(文中仮名)

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