【大同特殊鋼星崎工場・操業80周年】高機能鋼の優良生産拠点 時代の激動超え、生きる「先駆者魂」

 大同特殊鋼(社長・石黒武氏)は、高機能鋼の生産拠点である星崎工場(工場長・石濱辰哉氏)が、操業80周年の節目を迎えた。昭和金融恐慌などで不況感が続く時期から満州事変などで変化を迎える1937(昭和12)年、拡大する鉄鋼需要に対応するために最新鋭の鋼材専門工場として産声を上げて以来、戦禍を超えて躍進し、「ものづくり」の優良工場として常に先駆的な努力と取り組みを継続してきた。80年の歴史を振り返るとともに、地域との共生、職場環境改善、働き方改革への取り組みなどを紹介する。

戦争・復興・高度成長

 1937(昭和12)年3月15日から建設が始まった星崎工場。12月7日に10トンアーク炉1基に火が入り、300キログラム上注鋼塊で炭素鋼の生産が始まった。

 戦争へと進む世相の中、軍需のために大規模な拡張工事が進められ、太平洋戦争が起こる41年までにアーク炉4基の増設をはじめとする設備が設置され、国内最大、世界でも有数の新鋭特殊鋼工場へと発展した。

 終戦後は、食糧難とインフレがはなはだしく、工場の生産活動にも苦難が待ち受けた。しかし、星崎工場は迅速に生産を再開。軍需から民需への転換を進めた。

 特殊鋼需要は終戦によって激減したため、生産再開当初は農機具用鋼、中空鋼、普通鋼を生産。その後、鉄道車両の保修用として車両バネの需要が増えたことに対応し、完成バネの製造を開始。47年からは普通鋼線材の生産も始めた。線材生産は増加し、48年には5千トン(前年比11倍)に達する。その後も星崎は線材工場として増産記録を書き換えていく。

 戦後すぐは労働争議なども目立った。健全経営に向けた赤字工場の整理集約などが契機となり、労使関係が混乱した。その後、闘争から話し合いによる協調へと労使関係は変化した。

 そうした中、朝鮮戦争を契機とした特需が、工場を普通鋼から特殊鋼の生産拠点へと変えていった。輸出ブームなどで「神武景気」が到来し、自動車産業が成長。特殊鋼需要の急増に対応し、合理化工事が迅速に行われた。57年の第2次合理化実施により、需要増へ万全の体制を敷いた。

 景気の波は、工場の生産活動、経営にも影響を与えたが、不況期にも合理化を推進して溶接ワイヤDS1、鉛快削鋼などの新製品を開発。輸出向けの実績拡大などにも取り組み活路を見出していく。その流れが明確化してきたものの、59年9月26日の伊勢湾台風が工場に大きな被害をもたらした。

 工場は水没し、1カか月程度水はひかない。台風で従業員や家族にも犠牲が出た。大きな試練を迎えたが、労使一体となった復興の努力は「立ち直れるのか」との不安を払しょくし、同年11月には全稼働する。

 その後、62年に知多工場が完成・稼働する。これにより、星崎工場は加工度の高い高級鋼を中心に生産する体制に生まれ変わった。自動車メーカーの生産が拡大し、みがき棒鋼の需要が拡大。棒鋼加工工場を建設して需要増に対応した。また、特殊鋼鋼線の需要も飛躍的に増加したため、大規模な二次加工工場増強、設備合理化などを相次いで実施。国内最大の特殊鋼生産拠点として発展をつづけた。

鉄鋼業再編の中で

 東京オリンピック後の不況は、昭和40年代の鉄鋼業全体の再編を促す契機ともなった。

 東海製鉄と富士製鉄の合併に続き、富士・八幡の合併により新日本製鉄(現・新日鉄住金)が誕生。この間、星崎工場は酸洗・熱処理の各設備と線材二次加工部門の強化に尽力することに。オイルショックにともなう不況対応では、三次加工の強化も進み、二・三次部門の加工工場としてのイメージを高めた。

新時代に向けて

 76(昭和51)年9月、大同製鋼、日本特殊鋼、特殊製鋼の三社合併により「大同特殊鋼」が誕生する。星崎工場は同年、線材圧延仕上げ工程に、特殊鋼専用ミルとしては世界初となる「ブロックミル」を設置。

 以後も、大型投資が継続。同時に、安全な職場づくり、品質管理の徹底などで先駆的な存在となった。82年には、操業以来初となる無災害記録第4種・1080万時間を達成。84年には本館も新設した。

 21世紀を迎えた星崎工場は、難加工の量産化を中核とする付加価値製品を主に生産・加工する工場としての差別化を進めている。顧客ニーズは引き続き多様化し高まっていく。星崎の歴史はこうして再興を繰り返し、次のトレンドへとまい進していくであろう。

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