【第8回】「知る権利」国が妨害 元高校教師、30年超も調査  もう一つのビキニ被ばく

ビキニ水爆実験当時、周辺海域にいた高知県室戸市のマグロ漁船の船員の写真を手にする山下正寿さん=高知県宿毛市(撮影・仙石高記)

 「息子は2度、被ばくしました」。長崎原爆による「被爆」とビキニ水爆実験による「被ばく」の二重苦から、27歳で自殺した青年がいた。
 1954年3~5月、米国が太平洋・ビキニ環礁で行った水爆実験。船員23人が被ばくした静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の悲劇は世界に衝撃を与えた。
 しかし、その青年が乗っていたのは高知のマグロ漁船という。青年の母親の証言が、元教師山下正寿さん(72)のビキニ被ばくを巡る、長い闘いの始まりだった。

 ▽福竜丸以外の船も
 85年春、高知県宿毛市の高校で社会科を教えていた山下さんは、県西部・幡多地域で平和学習を行うゼミの顧問もしていた。その年の課題は広島・長崎への原爆投下40年。有志の高校生とともに、地域の被爆者を調べる過程で、次男節弥さんを2度の核被害で亡くした藤井馬さんと出会う。
 節弥さんは45年8月9日、長崎で馬さん、姉と被爆。その後、馬さんの故郷宿毛市に戻り、家計を支えようと乗り込んだ漁船で複数回、水爆実験に遭遇したとみられる。
 「第五福竜丸以外の船が被ばく?」。衝撃を受けた山下さんと高校生はその後5年間で、元船員約240人に聞き取り調査を実施する。
 その結果「キノコ雲を見た」「白い灰を浴びた」など数々の証言とともに、ビキニ周辺で操業した元船員が若い年齢でがんを患ったり、早世したりしていることが次第に明らかになってきた。「これほどの被害がありながら、なぜ国は何もしていないのか」
 ビキニ実験後の54年3~12月、日本政府が周辺にいた船を対象に実施した放射能検査により、東京など18港で800隻を超える船が500トン近い汚染魚を廃棄した。その約3分の1が高知船籍と言われる。

 ▽漁師へ親近感

 

 山下さんや報道機関の度重なる求めに応じ、厚生労働省が延べ556隻分の被ばくを裏付ける資料を開示したのは2014年9月。実験から60年もの歳月が流れていた。
 この間、多くの元船員が亡くなったが、偏見を恐れ、何も語らず世を去った者も少なくない。
 「知る権利とか、生存権とか、国が守るべき権利を、むしろ国が妨害した。棄民にしたんです」
 ようやく手にした証拠の数々。元船員や遺族ら45人は16年5月、被ばくに関する証拠資料を政府が開示しなかった結果、米国への賠償請求の機会を奪われたなどとして、ビキニ実験を巡っては初の国家賠償請求訴訟を高知地裁に起こした。
 「放射能さえ浴びなければ…」。原告の一人、高知県土佐清水市の元船員谷脇寿和さん(82)は30代で肝臓を悪くし、15年には肝臓と胃のがんで手術を受けた。「働き盛りのころ、治療費で生活は苦しかった。しんどかった気持ちを国に分かってほしい」と訴える。
 山下さんも国が度重なる開示請求に資料を隠し続け、精神的損害を受けたとして、原告に加わった。16年7月1日の第1回口頭弁論では「国による核被害隠しに光を当てる司法判断をお願いしたい」と意見陳述した。
 10月13日の第2回口頭弁論。1986年に政府が第五福竜丸以外の船の被ばくについて「資料は見つからない」と国会で答弁したことを巡り、国側は当時情報公開法もなく、知る権利は「抽象的な権利」と主張した。
 原告側は「当時も公文書閲覧窓口の制度があった」と反論。今後も国が故意に資料を隠してきたことの立証を続ける。
 「奪われたマグロ漁民の尊厳を取り戻したい」と山下さん。これが最後のチャンスだと考えている。(共同=池田絵美)

自身の漁船の前に立つ谷脇寿和さん。「情報を隠し続けてきた国には怒りを覚える」と語った=高知県土佐清水市(撮影・仙石高記)

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