【第18回】被ばく利用させない 福島の「無念」伝え続ける 原発建設、被爆者が説得

福島県浪江町の岡洋子さん(左)の自宅を訪れた福本英伸さん。岡さんは娘2人の成長を刻んだ柱を指さした。福本さんは「物語の一場面で使いましょう」と話した(撮影・大森裕太)

 6年前の3月、福島県浪江町の消防団員は東京電力福島第1原発事故で避難を余儀なくされ、東日本大震災の津波被災者を救助できなかった。そんな彼の苦悩を描いたアニメ映画「無念」は国内各地に続き、今年3月25日には、パリ南部の国際大学都市日本館でも上映された。
 「助けられなかった命におわびしているの」。団員が毎日、浪江町に向かって手を合わせているのを、団員の妻がめいに説明する場面から映画は始まる。約100人が食い入るようにスクリーンを見つめ、上映後は満場の拍手が湧き起こった。
 フランスは発電量の75%を原発に依存する国。大学教授の男性は「深刻さがよく分かった。多くのフランス人に見てほしい」と語った。
 

 ▽紙芝居や映画で

 映画を作った広島市の市民団体「まち物語制作委員会」は5年前から、原発事故で避難した人の体験談や誰もいなくなった地域の民話などを紙芝居にまとめ、各地で上演している。
 浪江町に住んでいた女性の手記を基に、避難生活を描いた「見えない雲の下で」、避難所で苦労する自閉症の子が主人公の「悠稀くんの手紙」、旅館のおかみが漁師から震災当時の話を聞き取った「命の次に大切なもの」など、作品は約40本に上る。「無念」は紙芝居から映画になった。
 制作委員会の代表で元広島市職員の福本英伸さん(60)は「紙芝居は手軽で安価。受け手も想像力を働かせるから共感を得やすい」と狙いを説明する。広島市で生まれ、広島修道大を卒業。市役所では広報誌の作成やイベントの企画などを担当し、イラストを描く機会が多かった。今年3月に定年退職した。
 紙芝居づくりのきっかけは、震災後に福島でボランティア活動中、原爆と福島の原発との関わりが書かれた「戦後史のなかの福島原発」(中嶋久人さん著)という本を読んだことだった。
 同書によれば、福島第1原発建設を担当した東京電力社員の中に原爆で兄を失い、自らも被爆者の救護に当たった男性がいた。1964年ごろ、福島県大熊町に赴任し、原発に不安を抱く町民にこんな話をした。
 

 ▽毎月800キロ往復

 「私は原爆を投下したB29とその後空に舞い上がったきのこ雲を見ている。皆さん以上に恐ろしさは身に染みて知っている。だから真剣に原子力発電も勉強した。原発はこれでもかと安全対策をしてあるので、私は十分安全だと信じている」
 福本さんは被爆体験が原発建設の説得に使われていたことに、大きなショックを受けた。
 一方、東北電力が原発建設を計画した浪江町の地主は終戦直前、広島で原爆の惨状を目の当たりにしていたので、土地を売らなかったという話も同書には出てくる。
 「私が小学生だった60年代、広島の被爆者は差別されないよう原爆の話題を避けていた。もっと被爆の惨状を伝えていれば、福島の人たちも説得を疑問に感じ、原発が建設されなかったのではないか。福島が黙ってしまえば、今度は原発事故の被ばくが利用される」
 そうならないよう、原発事故の「無念」や尊重されなければならない避難者、被災者の個人、人格を伝え続けていく。
 紙芝居の取材で毎月、約800キロ離れた広島と福島を往復している福本さん。今年1月31日には、福島市に避難している岡洋子さん(56)の浪江町の自宅を訪れた。3月末に解除されるまで居住制限区域にあり、日中しか入れなかった。
 

 ▽「沈黙しない」

 嫁入り道具のたんす以外、全て捨てた岡さんの家はがらんとしている。ハクビシンに荒らされて障子は破れ、ふんも散乱する。岡さんはかつて娘2人の身長を刻んだ柱の前に立ち「これが唯一、私たちが暮らしてきた証し」とつぶやいた。
 福本さんは岡さんの話に耳を傾け、写真を撮った。こうした取材を基にパソコンで紙芝居の絵を描き、脚本を書く。
 制作委員会のメンバーは約10人。72年前の被爆者もいる。同様に放射能で苦しめられ「人ごとではない」という思いから避難者と交流している。
 紙芝居を各地で上演している避難者も多い。
 15人前後でつくる「浪江まち物語つたえ隊」の語り部で、福島県桑折町へ避難している八島妃彩さん(51)は「出産や結婚を控える20代だったら自分も話せなかった。私たちの世代が語り、若い世代は年を取ってから継いでくれればいい」。
 広島で被爆者の体験談を聞き、差別や偏見は自分たちと似ていると思った。ただ、つたえ隊が紙芝居を上演してきたのは、全国約500カ所に上る。「私たちは発信できている。広島であったような沈黙は起こさせません」と八島さんは胸を張った。(共同=西村曜)

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