【特集】「東芝」ノンフィクションが面白い理由 青春、野望、内紛、存亡の危機

省エネ家電をPRする西田厚聡社長(当時)、阿部寛さん(左)と天海祐希さん(右)とともに=2007年10月

 ビジネス街の書店に東芝関連の本がずらりと並ぶ。「壊滅」「悲劇」「奈落の底」「戦犯」…。タイトルにはまるで敗戦国になったような厳しい文言が並ぶ。2015年以降の不正会計、原子力事業の巨額損失で東芝がなぜ存亡の危機に陥ったのか、歴代社長の資質が巨大組織にどう影響したか問うている。名門企業が転落していく過程にヒューマンドラマもあり、多くの勤め人の関心を呼び、読まれているようだ。しかも、「東芝の天皇」と呼ばれた西室泰三氏が10月14日に、不正会計で引責辞任した西田厚聡氏が1週間前の12月8日に相次いで亡くなった。社長、会長を務めた元トップ2人は「東芝本」の主役だ。彼らの死は東芝の一つの時代の終わりを告げているようにも思える。この機会に何冊か関連資料を含めて乱読、興味のあるところは自分でも調べてみた。(共同通信=柴田友明)

 ▽1970年の論文

 「実り豊かな果実は、苦渋に満ちた現実からしか育ちはしないであろう」。岩波書店の雑誌「思想」1970年8月号、巻頭の論文はそんな記述で締めくくられていた。寄稿したのは当時26歳の東京大大学院生、西田厚聡氏だ。東大で福田歓一氏に師事、西洋政治史を学ぶ博士課程の院生だった。

 最近出版された2冊のノンフィクション作品「テヘランから来た男 西田厚聡と東芝壊滅」(児玉博著、小学館)、「東芝の悲劇」(大鹿靖明著、幻冬舎)には西田氏が岩波の「思想」の巻頭を飾ったと記載されているが、内容まで紹介されていない。

 若き日の西田氏があの時代に何を考えていたのか。図書館で探して現物を手に取ってみた。タイトルは「フッサール現象学と相互主観性」。何度か目を通して苦笑いするしかなかった。素人目には極めて難解なのである。筆者が理解できたのは締めくくりの言葉だけだった。

 その代わり収穫はあった。同じ「思想」1970年8月号には西田氏の師、福田歓一氏が巻末に「思想の言葉」として大学紛争に言及して「専門職業」の在り方について持論を展開していた。時代背景が分かる。1968年に東大医学部でインターン制度を巡って学生自治会が無期限ストに突入、この流れは全学部に波及して安田講堂が占拠され、翌69年に機動隊突入で解除される。東大紛争と重なる時期に西田氏は大学院に在籍していた。一連の「若者たちの叛乱」が彼にどういう影響を与えたのか。この点については本人に直接インタビューしているノンフィクションライターたちも回答を得ていないようだ。

 ▽イラン人の妻

 その後の西田氏の人生は波乱に満ちたものだ。在学中にイランから来た女子留学生と知り合い結婚、学者としての道を断ち切るように妻の母国に渡り東芝の現地法人に勤務する。30歳前後でビジネスの世界に飛び込んだにもかかわらず、巨大企業トップに上り詰めた。

 西田氏の妻になる留学生については、意外にも東大の政治学の泰斗、丸山真男氏が著書「『文明論之概略』を読む」(岩波新書)の結びの文章で紹介している。上記のノンフィクション作品でも取り上げている。丸山氏が、福沢諭吉の「文明論之概略」をテキストにしたゼミナールを行う掲示を出したところ、事務室から外国人留学生が訪ねてきたと連絡が入る。ノックして入ってきた学生が黒ずくめのワンピースを着た若い女性だったので、丸山氏は驚いて参加理由を聞く。「東大法学部には日本人でさえ女子学生はきわめて少数だったので、意表をつかれる思いでした。(中略)祖国イランは古代には世界に冠たる帝国であり、また輝かしい文化を誇っていたのに、近代になって植民地の境涯に沈淪し、いまようやくそこからはい上がろうとしている。日本は西欧の帝国主義的侵略の餌食とならず、19世紀に独立国家の建設に成功した東アジア唯一の国家であった。私はその起動力となった明治維新を知りたいので、維新の指導的思想家としての福沢について学びたい、と。(中略)黒い瞳を向けて何か思いつめたような真剣な表情で語る彼女と対面しながら、私の脳裏を瞬時に掠めたのは―突飛な連想といわれるかもしれませんが―自由民権時代を代表する政治小説『佳人之奇遇』(東海散士著)に登場する女性志士の面影でした」。

 丸山氏の「『文明論之概略』を読む」下巻は1986年11月に第1刷が出ている。西田氏はそのころ東芝ヨーロッパ社の幹部としてドイツを拠点にパソコン販売の最前線に立っていた。業界ではその敏腕ぶりで名前が挙がり始めていた。丸山氏の西田氏関連の記述はほかには見当たらない。

 ▽インタビュー

 西田氏は2005年に東芝社長に就任した。経産省が旗を振る米国発の「原子力ルネサンス」に迎合して、翌年に自ら陣頭指揮して米原発大手「ウェスチングハウス・エレクトリック」(WH)を高値で買収。これが結果として東芝の息の根を止めるほど巨額損失を生み出す。09年に会長になり、後任の社長に原子力事業畑の佐々木則夫氏が就く。西田氏は「利益追求型」の企業に東芝を変えようとしたが、上にものが言えない企業風土も醸成したとされる。

 2011年3月の東京電力福島第1原発事故で世界中に脱原発の風潮が起きても、原子力にのめり込んだ東芝はそのスタンスを変えず、佐々木氏も原発に傾斜した方針を改めなかった。その後、西田氏と佐々木氏は経営を巡り対立を始め、社内では険悪なムードが漂う。不正会計で引責辞任した西田氏については「哲人」社長の面影もなくなったとされる。

 ノンフィクション作家児玉博氏は今年10月、西田氏の横浜市の自宅で3時間を超える長いインタビューをした。11月に出版された著書「テヘランからきた男 西田厚聡と東芝壊滅」では西田氏の生涯の軌跡を捉え、関係者の証言も得て異色の経歴を持つ経営者の実像を描こうとしている。

 その児玉氏に筆者はインタビューした。

 ―長年取材してきた西田さんはどういう方でしたか。

 「社長時代の西田さんは自信ありげで、本当に光り輝いていました。受け答えも当意即妙でした。作品でも書きましたが、最近、胆管がんのため手術して体調が回復してからインタビューに応じてくれました」

 ―おそらく記者としては西田さんに会ったのは児玉さんが最後だと思われますが。

 「もしかしたら達観した心境になっているかなと思ったら全く違っていました。自分が正しいというヨロイを身にまとっているような気がしました。心情を吐露していたのでしょうが、自己正当化のための自己催眠のようになった状態だったと感じました。痛ましく思いました。佐々木さんへの非難もありましたが、後任の社長に選んだのは西田さん自身のはずです」

 ―自分だけが正しい。それはどういう背景があってのことでしょうか。

 「ビジネスマンとして働いてきた時代、目まぐるしく変化する時代に猛烈な勢いで自己実現をしてきた人です。最後まで自己実現の場を守りたかったということだと思います」

 児玉氏は東芝の“光と影”を背負ってきた西田氏をそう表現した。哲学青年として自ら論文で書いた「苦渋に満ちた現実」から目を背けたと言うことだろうか。

西田厚聡氏(左)と後任の社長を務めた佐々木則夫氏(右)

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