⑤谷口さん、土山さん死去 役割問われる被爆地

 7月、核兵器を非合法化する核兵器禁止条約が国連で採択された。被爆者の長年の悲願が実現したその約2カ月後、被爆地長崎では反核・平和運動をけん引した2人の被爆者が相次いで亡くなった。

 原爆で焼けただれた自らの「赤い背中」の写真を掲げて世界に核廃絶を訴え、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員で長崎原爆被災者協議会会長を務めた谷口稜曄(すみてる)さん(享年88)が8月30日に、長崎の核兵器廃絶運動の理論的支柱だった元長崎大学長の土山秀夫さん(享年92)が9月2日に死去。“道しるべ”を失った被爆地は試練に立たされた。

 谷口さんは16歳の時、爆心地から1・8キロの住吉町で被爆。熱線で背中に大やけどを負い、生死をさまよった。うつぶせのまま過ごした1年9カ月を含め、入院生活は3年7カ月に及び、奇跡的に一命を取り留めた。

 土山さんは20歳の時、長崎で入市被爆した。長崎大医学部長を経て同大学長に就任。1992年の学長退任後、本格的に平和運動に携わり、非政府組織(NGO)核兵器廃絶地球市民長崎集会実行委員会の初代委員長を務めるなど、市民社会から核廃絶の声を上げる重要性を説いてきた。

 「核廃絶は感性と理性の両方に訴える必要がある」。土山さんが残した言葉は、長崎の運動の指針だった。その「感性」を谷口さん、「理性」を土山さんが支えた。

 2人が亡くなった後、9月に核禁条約への署名が始まり、応じた国は50を超えた。発効の見通しは立ったが、核拡散防止条約(NPT)体制での核軍縮を主張する米英仏中ロの核保有5カ国は署名を拒否。米国の「核の傘」に依存する日本政府も「核保有国と非保有国の協力が重要」との立場から賛同せず、被爆者はいら立ちを募らせている。

 そうした中、一筋の光が差し込んだ。10月、核禁条約採択に尽力したNGOの「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がノーベル平和賞を受賞することが決まった。条約は「国際規範」であると世界にアピールする好機が訪れた。

 今月10日の授賞式は長崎市内のパブリックビューイングでも中継された。被爆者の田中安次郎さん(75)は共に活動した谷口さんの遺影を手に「残された被爆者が遺志を継ぐ」と誓った。

 土山さんに学んだ研究者も決意を新たにする。長崎大核兵器廃絶研究センターの中村桂子准教授は「被爆地の研究者として、土山先生の理論を継承する覚悟ができた」。

 今年、被爆者の平均年齢は81歳を超え、長崎市が交付した被爆者健康手帳の所持者は3万人を割った。被爆地長崎の象徴的存在だった2人の死は「被爆者のいない時代」が迫る現実を突き付けると同時に、被爆地が果たすべき役割とは何かを問い掛けている。

被爆地長崎の反核・平和運動をけん引した谷口さん(左)と土山さん

© 株式会社長崎新聞社