「日中の懸け橋」逝く

 「卓球大会を長崎で開けるよう頼み込んでこい」。命じられ、あっけにとられたという。時は1971年。言い放ったのは久保勘一知事。難問を突き付けられたのは、長崎華僑聯誼(れんぎ)会(今の長崎華僑総会)の諭云登(ゆうんと)会長▲この翌年に実る日中国交正常化を待たずして、知事は県の訪中使節団を派遣したいと公言していた。日本政府が認めていたのは台湾で、大陸への熱い思いを公人が公の場で語るのは、はばかられた時代というのに▲2002年、国交正常化30年の節目に、中国と長崎の深い縁を取材し、たどる機会があった。なかんずく何度もお訪ねして、身を乗り出すように聞いたのが諭さんの話▲「日中交歓卓球大会」は日中の雪解けムードを象徴する大イベントだった。他県開催で固まっているのを覆せ-と言われた諭さんは、大会事務局の中国人の知己に働き掛け、驚いたことに「即日回答で」覆した▲翌72年5月、大会は長崎で開かれ、4カ月後に国交正常化。諭さんは「人脈第一の中国社会を地でいく話だね」と懐かしんだ▲日中友好に尽くしたその方の訃報に接する。87歳。長崎-上海間に定期航空路を設ける、中国総領事館を長崎に置く…。一地方が大事を成した背後には、汗だくの諭さんがいたと聞く。久保さんとの天上の昔話が弾むことだろう。(徹)

【編注】諭云登(ゆうんと)会長の諭は、言をとったもの

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