④天草の﨑津集落(熊本県天草市) 漁村に根差した信仰 踏絵の場所に立つ天主堂

 7月上旬。ひとしきり降った雨が上がると、家屋が密集する小さな港町の中にそびえる﨑津天主堂の姿が、港の向こう岸にくっきりと浮かび上がった。目の前の風景が歴史を語りかけてくるようだ。

 﨑津は天草下島の南西部に深く入り込んだ羊角湾(ようかくわん)の中央部に位置し、古くから海上交易の拠点として栄えた。戦国時代の1569年、イエズス会宣教師アルメイダが布教して教会が建った。北東の河内浦にはコレジオ(大神学校)が置かれ、南蛮文化が花開く。信徒は江戸幕府が出した禁教令後も信仰を守り続け、「潜伏キリシタン」になった。

 﨑津の海際には民家がずらりと並び、木材を組んで海の上に設けた作業場の「カケ」をはじめ、昔ながらの漁村景観が残る。国は2011年、﨑津を重要文化的景観に選定した。

 道路網の発達と共に港町の﨑津は衰退した。現在の人口は江戸時代の5分の1の500人。長崎で生まれ、4歳の時から﨑津に住む住民ガイドの森田哲雄さん(76)は「町は寂しくなったが、世界遺産候補になったおかげで観光客が増えている」とうれしそうだ。集落には、立派な資料館とガイダンスセンターが整備されている。

 森田さんに連れられ、集落西側の高台にある﨑津諏訪神社に行った。潜伏キリシタンが詣で、そっと「あんめんりゆす(アーメンデウス)」と拝んでいた信仰の場だ。「彼らの艱難(かんなん)辛苦の歴史にこそ価値がある」。森田さんが言葉に力を込めた。

狭い土地に家屋が密集している「天草の﨑津集落」。中央やや右が﨑津天主堂=熊本県天草市河浦町(小型無人機ドローン「空彩1号」で撮影)

 ■崩れの記録

 江戸期の天草下島西部には、1638年に鎮圧された島原・天草一揆の後も大勢のキリシタンが残り、長期間潜伏していた。だが、牛を殺して祭事の供え物にしていたことなどが発覚し、1805年に5200人ものキリシタンが摘発された「天草崩れ」が起きる。

 当時の記録によると、﨑津村は住民の7割に当たる1700人がキリシタンだった。彼らは「でうす様」を漁の神様として信仰した。キリスト教のメダイ(メダル)のほか、内側の模様を聖母マリアに見立てたアワビの貝殻などを隠し持ち、「おん天地にまします、おんあるじでいうすさま、あんめんりゆす」と拝んだ。供え物には魚肉も使い、漁民の暮らしに根差した信仰の形がはぐくまれていた。

 村には複数の信仰組織が存在し、中には女性のリーダーもいた。子どもが生まれると、役職者の「水方(みずかた)」が水に浸した十字の紙を子どもの額に押し当てて洗礼を授けた。1週間を7日とする西洋暦を規範に生活し、クリスマスや復活祭には内密に集まって行事をした。

 教会はなく、神父もおらず、長い年月を経て変質したように見える信仰を、幕府はもはやキリスト教ではない「異宗」として扱った。「心得違い」の住民にキリストや聖母の像を踏ませる「踏絵(ふみえ)」をさせると、改心したと見なして処罰せずに家へ帰した。

 ■神父の念願

 明治初期の1873年、キリスト教の信仰が解禁された。﨑津の潜伏キリシタンは続々とカトリックに復帰した。現在の﨑津天主堂は昭和初期の1934年、フランス人のハルブ神父が母国に寄付を募り、上五島出身の教会建築の名手、鉄川与助に依頼して建てたものだ。

 天主堂は江戸時代に毎年踏絵をしていた庄屋屋敷の跡に立っている。祭壇がある場所がまさに、踏絵の舞台だった。「子どもの頃に聞かされた話です」。天主堂の中で森田さんが話し始めた。

 潜伏キリシタンは踏絵を終えると、急いで家に帰り、足を水で洗った。そして、その水を飲んだ。「踏絵はキリシタンにとって万死に値する罪だった。足を洗った水でも飲まんと生きていけんという思いだったんでしょう」。大切なものに足をかけた後悔の念に責めさいなまれる潜伏キリシタンの姿がまぶたに浮かんだ。

 踏絵の場に教会を建てるのはハルブ神父の念願だったという。本当の心を隠し、後ろめたさを抱えて生きた潜伏キリシタンの悲しみを、神父は忘れてほしくないと願っていたのだろう。

1647年創建の﨑)津諏訪神社。潜伏キリシタンが祈りの場にしていた=熊本県天草市河浦町

 ◎メモ

 フェリーは口之津(南島原市)―鬼池間(30分)、高速船は茂木(長崎市)―富岡間(45分)、長崎―﨑津間(1時間40分、毎週金、土、日、8月11~13日は運休)が運航。﨑津集落内の教会入口バス停まで産交バスで、鬼池から本渡経由で1時間50分、富岡から1時間20分。交通手段の問い合わせは天草宝島観光協会(電0969・22・2243)

 ◎コラム/「証拠」残る唯一の資産

 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、潜伏キリシタンの信仰に世界遺産価値がある。だが、彼らは仏教や神道を装ってキリスト教への信仰をひたすら隠していたから、信仰の証拠になる禁教期の記録類が極めて少ない。

 天草高浜村庄屋の上田家は「天草崩れ」に当たり、潜伏キリシタンの信仰形態をつぶさに書き留めた報告書を残した。この貴重な記録のおかげで、﨑津集落では信仰用具にアワビの貝殻を使っていたことなど、漁民の生活に根差した信仰になっていたことが分かっている。

 宣教師が再来日した幕末維新期を除けば、長期の潜伏を経た後の信仰形態を記した具体的な史料は、「浦上三番崩れ」(1856年)の取り調べ記録が残る長崎・浦上村と天草の2カ所しかない。浦上は潜伏キリシタン遺産の構成資産から漏れている。12資産の中で唯一、禁教期の信仰形態を生々しい史料で立証できる「天草の﨑津集落」が果たす役割はとても大きい。

                               (2017年07月21日掲載)

﨑津の潜伏キリシタンが信仰用具にしていたアワビの貝殻(天草コレジヨ館蔵)

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