⑧野崎島の集落跡(北松小値賀町) 神道の聖地に隠れ住む 険しい地形で苦難の生活

 空と海と山が織りなす雄大な風景の中に、れんが造りの小さな旧野首教会がぽつんとたたずんでいる。素晴らしい眺めに心が洗われる思いがする。

 野崎島は小値賀島の東に浮かぶ南北約6キロ、東西約1キロの細長い島だ。1960年代初めには野崎、野首、舟森と三つの集落があり、670人が住んでいたが、現在は廃校を改装した宿泊施設「野崎島自然学塾村」の管理人が籍をおくだけで、ほぼ無人島といっていい。島には約400頭のニホンジカが生息しており、至る所で出くわす。

 野崎島は古来、神道の聖地だった。島北部の山頂付近には、五島列島一円の信仰を集める「沖ノ神嶋(こうじま)神社」が鎮座する。社の歴史は非常に古い。祭神は神功皇后の三韓征討に従った「一速王(いちはやおう)」で、飛鳥時代の704年、小値賀島にある「地ノ神嶋神社」と分けて祭られたという。

 原生林をはじめ豊かな自然が残る野崎島は全域が西海国立公園に含まれている。2011年には「小値賀諸島の文化的景観」として国の重要文化的景観にも選定された。

段々畑の跡の中に旧野首教会がたたずむ「野崎島の集落跡」=小値賀町野崎郷

 ■氏子を装う

 野崎島には元々、東部の野崎集落に沖ノ神嶋神社の神官や氏子が住んでいた。江戸幕府の禁教令の下、ひそかにキリスト教への信仰を続けていた「潜伏キリシタン」が移住してきたのは19世紀以降のことだ。彼らは長崎・外海(そとめ)地区から五島列島や天草などを経て、さらなる安住の地を求めてやって来た。

 彼らは島中央部の野首と南端の舟森で集落を営んだ。野首は18世紀初め、捕鯨で財を成した小値賀島の豪商小田家がいったん開発したことがあり、そこに五島の久賀島や三井楽から来た潜伏キリシタンが居付いた。舟森は未開地で、小値賀の船問屋田口徳平治が1845年ごろに外海で捕まっていた潜伏キリシタンの親子を助け、住まわせたとされる。

 移住者は険しい斜面を切り開き、やせた土地でイモや麦などを栽培し、海岸で海藻を採って暮らした。彼らはキリスト教への信仰を隠すために沖ノ神嶋神社の氏子になった。信仰生活の規範になる教会暦をつかさどる「帳方(ちょうかた)」と、洗礼を授ける「水方(みずかた)」という役職者がいて、組織的に信仰を続けた。北松小値賀町教委が実施した舟森墓地の発掘調査では、禁教期とみられる墓から、「西方浄土」の西に背を向けて埋葬された潜伏キリシタンと思われる人骨が出土している。

 長崎の大浦天主堂で外国人宣教師と浦上村の潜伏キリシタンが対面した「信徒発見」が起きた翌年の1866年、野首の水方ら4人は同天主堂を訪ね、以後宣教師の指導下に入った。明治初めには野首と舟森の信徒約50人が平戸藩に捕まり、投獄されている。

急斜面を開拓した跡が残る舟森集落跡=小値賀町野崎郷

 ■相次ぎ廃村

 殊に貧しい生活が「来世の救い」をこいねがう思いを強くしたのだろう。野首と舟森の人々はあつい信仰心を培っていた。キリスト教信仰が解禁されてから9年後の1882年には両集落につつましい木造教会が建っている。

 さらに野首の信徒は共同生活をして食費を切り詰め、キビナゴ漁で資金を蓄えて、1908年に野首教会を建てた。教会建築の名手、鉄川与助が初めて手掛けたれんが造りの教会堂で、貴重な建築物だ。県有形文化財に指定されており、現在は小値賀町が管理している。

 昭和30年代以降の高度経済成長期になると、離島の細々とした半農半漁の生活は立ちゆかなくなった。1966年に舟森が、5年後には野首が相次いで廃村になる。2001年には最後まで残っていた野崎の神職も島を去った。

 自然学塾村塾長の前田博嗣さん(56)の案内で、野首から舟森を目指した。山道を歩き1時間余。目の前に荒涼とした廃村が現れた。海から一気にせり上がる急斜面に家屋や段々畑の跡が残る。教会跡には瓦とがれきが散乱していた。

 この風景こそが、厳しい生活に耐えて信仰を守った潜伏キリシタンの労苦を物語る証人だ。「昔の人の苦労はわれわれが軽々しく語れることではないが…」。前田さんの声が、廃村に打ち寄せる波の音にかき消えた。

 ◎メモ

 佐世保港から高速船で小値賀港まで1時間25分。同港隣の笛吹港から町営船で野崎港まで35分。同港から旧野首教会まで徒歩30分。同教会から舟森集落跡まで徒歩約1時間半。野崎港近くの「神官屋敷」は一般公開されている。渡航連絡とガイド(有料)の問い合わせは、おぢかアイランドツーリズム協会(電0959・56・2646)。

 ◎コラム/謎の奇岩「王位石」

 沖ノ神嶋神社の背後には「王位石(おえいし)」という鳥居のような奇岩がそびえる。高さは24メートルもあり、頂上には8畳ほどの広さがある板石が載っかっている。自然のものか、人工物なのかは不明だ。

 江戸時代の平戸藩主松浦静山は随筆「甲子夜話(かっしやわ)」で「石の上に大明神が現れた」という伝説を紹介している。石の頂上で平戸神楽が舞われていたという伝承もある。同神社は古代から航海安全の神として信仰を集めてきた。王位石は太古の昔から、遣唐使船をはじめ、東アジアを往来する船を見守ってきたに違いない。

 王位石は対岸の小値賀島から望めるが、間近で見たければ山道を片道2時間以上歩かねばならない。記者は来年で50歳。運動不足がたたり、片道1時間余の舟森集落跡に行くだけで息が上がり、汗びっしょりに。先導する前田さんに「ゆっくり歩いているんだけど」と苦笑いされた。もう一度体を鍛え直し、いつか王位石参詣に挑戦したい。

                               (2017年11月17日掲載)

沖ノ神嶋神社の背後にそびえる「王位石」(小値賀町教委提供)

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